母親になったら毎日が嬉しく寂しい日々だった
こんにちは。ちぬです。
無事に出産を終えて、もうすぐ二か月。暇だけど忙しい日々を過ごしています。
自他共に認める子ども嫌いだった私が本当に子育てができるんかいな、と思っていたけれど、周りもびっくりするほど母親としてやっていけてます。
※2022年9月23日の移植記事です。
はじめまして、あなたの母です
2022年7月31日、第一子となる男の子を産んだ。出産後、すぐにカンガルーケアをしてもらったのだけど、その時は感動とかあまりなくて(色々とあったからね)、「この人が私の中にいたのか」となんとも当たり障りのない感想を抱いた。ガッツ石松ではないな、朝青龍とも違うし、なんだろ・・・あ、ヨーダだ?なんて、生まれたばかりの我が子を眺めながら似ている芸能人を探したりしていた。
助産師さんに赤ちゃんに触れたり話しかけたりしてあげてねと言われ、発した言葉が「はじめまして?母です。どうも。こんな感じですがよろしくおねがいします」だった。
普通ならば「やっと会えたね」とか「生まれてきてくれてありがとう」とかなんだろう。けれど、妊娠中もお腹の中にいるのは猫かクリーチャーなんじゃないだろうか、本当に人間が入っているんだろうかと半信半疑だったため、目の前にいる小さく弱々しい人間を目の前にしてようやく絞り出した言葉が「はじめまして」になってしまった。
カンガルーケアと初乳を与えるミッションを終え、お子は血液検査等のため連れていかれた。その後私は2時間分娩室で安静、午後に病室に戻った。病室に戻ってからも無痛の麻酔が残っていて下半身が使い物にならなかったので、母子同室になったのは夕方から3時間ほどの時間だった。
様々な検査を終え、私のところに連れてこられたお子の顔。生まれた直後とは違う顔になっていてびっくりする。「あれ?君そんな顔だったっけ?」と声に出ていたらしく、助産師さんに笑われた。「これからどんどん浮腫み取れて毎日顔変わるからね~、たくさん写真撮っておくといいよ」とアドバイスをもらったので、その日からたくさん写真を撮った。
振り返れば、愛しさ
すやすやと寝ているお子を眺め、「これは庇護欲を掻き立てる存在だな」とか「本当に人間が入っていて私が自分で産んだんだよな…」と思いながら、なんとなく癖でお腹をさすったらお腹が凹んでいてなんだか寂しくなってしまった。つい数時間前まで感じていた胎動、もう感じることができない。あんなに煩わしく苦しいと思っていた大きなお腹。それすらも今となっては愛しいものだったんだな、となくなってから初めて気付いた。
そろそろ子どもを…と思い、始めた妊活。検査薬が陽性になった日。エコーで見た豆みたいな姿。心拍のチカチカ。初めて感じた胎動。眠くてだるい毎日。いつも見せてくれないお顔。日に日に大きくなっていくお腹。寝苦しい夜。
とても長く感じていた妊娠生活が終わった。
今日からうつ伏せで寝られる。今日から薬が飲める。今日から食事を気にしなくていい。なんて快適なんだ。でも、やっぱり、寂しい。
まさか妊娠生活を振り返って寂しさを感じるなんて思わなかった。なんだ、妊娠中から少しずつ母親になっていたんじゃないか。
嬉しいと寂しいの繰り返し
生まれたばかりのお子は2455gの低出生体重児で片手でひょいっと持てるほど軽くて小さかった。ちょっと力を入れたら折れてしまいそうな枯れ枝みたいな華奢な四肢。握りつぶせてしまえそうな小さな頭。ほにぇほにぇとか細い声で鳴く小さな命を生かすことで精いっぱいの日々。
夜中の頻回授乳、それに伴うおむつ交換。湿疹が出来ては清潔に保ち、お尻がかぶれないように気を遣い、室温は適温かな、着せすぎていないかな、全神経を目の前の命に集中させて、毎日同じことの繰り返し。
そんな日々を過ごしていたけれど、お子は毎日少しずつ顔が変わり、毎日少しずつ大きくなっていき、毎日少しずつできることが増えていく。日々の成長がとても嬉しく、そして寂しい。成長を寂しく思うなんてことがあることも母親になって初めて知った。
今は生まれてから一ヶ月半過ぎて、生まれたときの2倍の体重になっているし、身長も6cm以上伸びている。私の動きを目で追ってくれるし、頭も持ち上げられるようになり、こちらを見て笑いかけてくれる。一回の睡眠時間も伸びてきた。もう片手で持ちあげられないし、四肢もむちむちとしてきたし、頭も大きくなった。あのか弱いお子はどこにもいない。どこからどう見てもふっくらとした赤ちゃんだ。
とても嬉しく、とても寂しい。
何の変哲もない今日が、戻りたくなる過去になる
お子を生かすことしかしていない、社会から切り離された生活。今日が何日で何曜日なのかわからない。お子をお腹の上に乗せて、体温と重さを感じながら二人で昼寝する。すぅすぅと寝息を立ててるお子の長く整ったまつげを眺め、丸いおでこに鼻を寄せる。あぁ、これは愛しいな。
「自分の子どもはかわいいよ」と妊娠する前から散々聞かされていた言葉。そんなの生まれてみなければわからないじゃん、もし愛することができなかったらどうすればいいんだ。なんて本気で思っていた。
「かわいい」という言葉は何も顔の造形や存在に対して使われるわけではないことを知った。「かわいい」という言葉の中には「愛おしい」と言う言葉の意味が含まれている。自分の子どもは「切ないほど愛おしい」と思った。私にもちゃんと母性があった。私の中の細胞のすべてが、お子の細胞すべてを愛おしいと感じ、守りたいと思う。健やかに育ってほしい。
何の変哲もない今日。お子を膝の上に乗せ、これを書いている今この瞬間に戻りたいと思う未来があるかもしれない。そんなことを思うようになった。この先大変なことばかりだと思うけれど、できうる限り大切に過ごしたい。