かわいそう、の違和感。
常々「可哀想」の言葉に違和感を持っていた。「可哀想」娯楽ではないか、と。
可哀想って言われるたびに、別にわたし可哀想じゃないけど、て思ってた。そしてめちゃ他人事ある言葉だなと。
自分の価値観から見て下に見えるものを「可哀想」としているだけであって、当人の認識は関係ない。「哀れだ」とマウンティングしてるだけではないか。
まあ、いい。べつにー。
だが。最上もがさんの妊娠にまつわる諸々をみて「生まれてくる子供が可哀想」と。これはさすがに何言うてんねん、と激しく思った。ので書いてみよう。
「可哀想」と言う背景には「不幸な未来が待ち受けてる未来を予測した」から、可哀想、の結論になるんだろう。そしてそれは他人事だ。自分には関係のない「不幸な未来」だろう。自分に影響あったら「不幸な未来」を避けるように動くだろうから、「可哀想」は「自分に影響のない、より下方の比較」によって成り立つのだ。
そして「不幸な未来が見えるけれど自らは変えようとしない」から「可哀想」の言葉で終わらせて、でも「可哀想なひとたちを気遣ってる自分」を演出しようとしてるのでは、と思ってしまうのだ。のだ!
「可哀想」と思うなら、その境遇でも「可哀想」と思わない環境を作ろうとしたい。それが出来ないなら「可哀想」という権利はないと、そう思う。可哀想ぶってる自分を演出したいだけではないのか(「こう見せたい」を割と察しやすい方だと思う)
なので、他人の妊娠出産に「可哀想」と言える状況なんて誰にもないのだ。親が何人いようといるまいと、親の職業がなんであろうと、それが「可哀想」という大人がいるから「可哀想」になるんだ。
ナチュラルに、ただ「その人自身」を見ればいいことなのに。なぜ生まれてもない子が「可哀想」になるんだろうか。
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自分に影響のない出来事に対して意見を言うのは、もういいんではないかな。(普通の感想になってしまった)