私の中に棲む暴力に向き合う
1日の終わりに歩いてます。体が慣れてきたら時々走ります。1日に自分に課している距離は8km。たけど、歩いているうちに日が暮れてしまうから、結局6kmちょっとしか歩けない。歩くことを習慣づけるのは、デスクワークで引きこもり気味な自分への罪の意識からと、ダイエット、単純に登山部に備えた自主トレーニング、そしてメンタルケアが目的。いろんな目的を持って歩くのだけど、今回はメンタルケアについて触れようと思う。
よくよく考えると、私が歩くようになったのは、今に始まったことではない。大阪で事務所に所属していた時からだ。仕事が終わると、帰りは2駅ほど歩いてから電車に乗って帰った。もしくは、自宅の最寄駅についてから自宅とは反対方向に歩いて2駅歩いて帰ってくる、という謎の行動。残業で遅くなる日は、朝早く起きて、事務所の2駅前でわざわざ下車して、出勤。
歩く理由は、やっぱり美容。ダイエットだったように思う。でも当時私は誰が見ても痩せていたし、食に執着もなかったので、ダイエットの必要などなかったと思う。それはあくまで自分をわかりやすく納得させるための理由で、実は、モヤモヤとした気持ちをリセットするためだったのかもしれない。思春期の男の子が部活動に励んで性欲や暴力性を抑えるのと同じ原理だったのかもしれない。
そうだ、私はきっと、人一倍暴力的な人間なのかもしれない。理性的に物事を頭で理解するだけでは到底追いつかない、根底から湧き上がってくる何かを抑えるためかもしれない。そう考えると、人間って文明を手に入れてどんなに進化しても、やっぱり有機的なものであるのだなぁと思う。根は動物と同じなのだと思う。
私が人一倍暴力性を持っている理由は、抑圧に弱い人間であるからだと思う。例えば、研ぎ澄まされていた中学時代は、教室をよく脱出していた。一定時間、みんなが同じ方向を向いて小さな教室の中に閉じ込められることが恐怖で仕方なかった。教室での授業を、「閉じ込められる!」という強迫観念に受け取ってしまうのは、私特有のものであるかもしれない。同調圧力も抑圧だと受け取ってしまいがちだ。とくに、奇をてらいたいわけではないが、私はとても不器用だったし、一卵性双生児として育ったことも大きいかもしれない。妹も同様に先生や親を悩ませる子供だった。
歩くことを欲するのは、きっと心がそれを求めているから。体を頭と同等に疲れさせなさいということなんだろう。頭をあれこれと悩ませたりするのは、おそらくパワーが有り余っているから。パワーが有り余っっているからモヤモヤとするのだ。モヤモヤは私が最も憎む、「暴力的」な思考へと移行する。自分に対しても他人に対しても決して優しくはないはずだ。これは生きるか死ぬかの必死の怒りなのだから。
なので、私が山登りにハマってしまったのはもはや必然。
今日も歩いてきた。心と体のため。魂を鎮めるため。歩き始めは好きな音楽を聴きながら歩いているが、郊外まで来ると、イヤフォンを外してしまう。山や畑は静寂だから、その音を聴きたくなる。カエルの声、川の音、水の音、遠くに聞こえる誰かの声、鳥の声、そして私の足音。静寂。静寂の音を聴きながら、梅畑の間を歩くときは、落下している青梅でサッカーしながら歩く。歩いていると、なんでもない風景がいきなりおしゃべりになる。なんでもない風景がものすごく重要なメッセージ性を持って訴えてきたり、ハッとするものに出会う。けれども、それは至極プライベートなもので、誰かと共有できる類のものではないだろうし、それを共有した瞬間からまた、「暴力的」なものに繋がっていく。どうしたって、人と人は違う生き物だから、心の奥底を理解し合うことなんてできないのだから。けれども時々、たまに、ごくまれに、自分が発した何かで誰かが勇気を得たり、癒されることもある。けどそれはごくまれに、だ。だから、そういう風景に出会ったときは、写真を撮る。時間があればスケッチをする。見る人が見れば、そのメッセージを拾うことができるかもしれない。説明的でないほうが良いのだ。
今日は出会った印象的な風景。そしてメッセージ。あえてタイトルをつけるならば、「高架下に隠したつもりのもの」
私はこれを見たときに、神様に心境を見透かされてるようなメッセージが飛び込んできてギョッとした。きっと気づく人はあまりいないだろうけど、私には衝撃だった。そしてそんな発見が一つ一つが自分だけのものである事にほっとする。
結局、歩くことで身体を疲れさせても、その瞬間にメッセージを受け取ってしまう。そして思考する。だから、私にとって、世界は刺激で溢れている、どんなに見慣れた日常でも、小さな小さな世界でもコミュニティでも、教室でも、あなたでも飽きる事なく。ときには刺激が強くて暴力的に感じるほど。
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