巨匠と。 #00 はじめに
2002年3月末。Mさんと共に古都ローマから北に延びる鉄道に20分ほど揺られて郊外の小さな駅で降りると、遠くから「シューラトー!!」と呼ぶ声。それが自分を呼ぶ声と気付くのに少し時間がかかった。「シュウタロウ」はイタリア人には少し覚えにくい名前ではある。
何度目かの「シューラトー!!」の後、そちらに目をやると、水色のシャツに紺のニットのベスト、グレーのスラックス姿にサングラスといういで立ちのイタリア人がこちらに手を振るのが見えた。恰幅がよく、背は170センチの僕より少し低い。サングラスがのっかっている見事な鷲鼻はいかにも意思の強そうな印象。
彼がもう一度「シューラトー!!」とこちらに手を振る。
そこではっきりとお互い目が合って、あ、俺のことだな、と確信すると、そこで僕も手を振り返した。
恩師、ジャンパオロ・サヴィーニとローマでの最初の出会いはそんな具合だった。
この日は懇意にしていた日本人バイヤー、Mさんの紹介で、ローマに渡った僕がはじめてサヴィーニの仕事場を訪れた日。
僕の人生のターニング・ポイントがあるとしたら、この日は間違いなくそれだった。
昔のことは割と気持ちよく忘れてしまう性質なのだけど、なぜかこの日のこと、特にこの駅を降りた瞬間のことは、空が抜けるように青くて日本の青空とは違うなあ空気が綺麗だからなのかな、などと考えたこととか、駅の地下通路を上がる階段がどこからか漏れた水で濡れていてそれを避けて上がったこととか、サヴィーニにとってはずっと付き合いの古いMさんではなくて、なぜか僕の名前(間違ってはいたけれど)を呼んでくれたこととか、文字通り昨日の事のように細かいことまで覚えている。
この日、この瞬間から、僕の楽器作りとしての人生は大きく舵を切ることになった。
サヴィーニとはその後10年以上の付き合いになり、語りつくせないほど沢山のエピソードがあるのだが、今まで師のことをオープンに語ることはほとんどなかった。
それはひとえに、サヴィーニがそれを嫌ったというシンプルな理由からだ。
サヴィーニは所謂職人気質を絵に描いたようなところがあって、実践や経験による蓄積が良いモノづくりに繋がると強く信じていた。得てして楽器製作者同士が集まると、楽器のつくりや研究の議論が白熱することがよくあるが、そういう意見交換には全くと言っていいほど興味がなかったように思う。むしろそういった議論自体を揶揄して、楽器作りなら口を動かす前に手を動かせ、とよく言っていた。それ故自分の楽器や作り方について、こういうところにこだわっている、とかこういうところが独創的だ、とかいった前口上の多い職人を心底軽蔑していた。
できた楽器が全て。それ以外に語る言葉や説明は必要ない。
厳しいけれど、腹の底に染みる考えだった。
加えて(楽器作りには時としてあることだけれど)製作に関して極端に秘密主義なところがあった。それはサヴィーニの師匠であるアンサルド・ポッジに対する深い畏敬の念によるところが大きい。ポッジは言うまでもなく20世紀を代表する弦楽器製作者で、20世紀のストラディヴァリとも称される、文字通り歴史に残る巨匠。サヴィーニは79年から82年までポッジと仕事をしていた。ポッジは84年に亡くなっているので最晩年の弟子ということになる。
製作技法において独特なところも少なからずあって、彼の技法を簡単につまびらかにしてはならない、という思いはかなり強かったと思う。
自身の工房は家族やごくごく親しい友人の他は誰も入れなくて、楽器を見たいという演奏家も仕事場には入れなかったし、当時は大家さんと同居していた僕のアパートの作業場にも鍵がかけられるか確認し、他の製作者はもちろん演奏家や一般の人にも仕事の現場を見せてもいいことはないぞ。と釘をさされたほどだ。
そんなわけで彼との仕事や過ごした日々について、また今まで僕の目から見た作り手としてのサヴィーニについて公に述べることはしてこなかった。
ただ、時が流れて時代も移ろい自分も歳を重ねサヴィーニが亡くなって7年が過ぎ、最近になって、一人の魅力的な楽器製作者がどんな風に珠玉の楽器を今に残したのか、共に仕事をして彼の人となりを一番近くで見てきた製作者のひとりとして、後世の誰かに伝え残すことに半ば義務的なものを感じるようになった。
間違いなく、あちらで師は「そんなことをしている暇があったら手を動かせ!」と怒るに違いないのだけど、そんな気質も含めて今後少しずつ、敬愛する巨匠ジャンパオロ・サヴィーニと、過ごした日々について書き綴っていこうと思う。