巨匠と。 #01 出会い その1
僕とサヴィーニがはじめて顔を合わせたのは、実は2002年の春ではない。
そのおよそ1年前になんと日本で最初の握手を交わした瞬間があった。
その出会いを語るために、Mさんのことを書かなくてはならない。
彼女はヨーロッパなどで弦楽器を買い付けてくることを生業としていた、所謂弦楽器バイヤーの草分けのひとりで、僕をサヴィーニに紹介してくれた大恩人だ。僕とは親子ほど年齢は離れているけれど、全く歳の差を感じないエネルギッシュでバイタリティ溢れる人。Mさんの紹介がなかったら、偏屈なところのあるサヴィーニがどこの馬の骨ともわからない外国人を弟子として認めてくれることは決してなかっただろう。
80年代はじめのことだったと思う。Mさんは当時まだ日本では知る人ぞ知る、という状態だったポッジの楽器に魅力を感じ日本に持ち込んだ数少ないひとりだった。
残念なことに、Mさん自身がポッジと会う機会を得る前に巨匠は84年に亡くなってしまうのだが、最晩年の弟子であるサヴィーニの楽器を見出し、交流がはじまるのにそれほど時間はかからなかったようだ。
サヴィーニは、口の立つイタリア人相手にもはっきりとモノを言い、また義理堅いところのあるMさんに次第に信頼を置くようになっていった。偏屈とも言える頑なさで業界の人間を寄せ付けなかったマエストロが彼女を気に入り、その結果決して多くはない彼の楽器を日本に広められたのはMさんの大きな功績と思う。
そうやって交流を深めること10数年。Mさんはある時期から、技術的には非常に高い水準にあるのに日本人の楽器はいまいち魅力に欠ける。勿論技術は大事なのだが、サヴィーニのような楽器作りのもとで日本人がその技術をもって作り手としての感覚を磨いて行けたなら、よい楽器作りが生まれるのではないか、と思うようになったという。
時は90年代の終わりころ。
その当時僕は埼玉の工房で楽器製作と修理の基礎を勉強中で、そこにMさんが出入りをしていた。Mさんはその工房の主である僕の師匠に大きな信頼を寄せており、買い付けてきた楽器のセットアップやメンテナンスをよく依頼していた。そのおかげで、今思うと僕は非常に多くのポッジやサヴィーニの楽器を間近で見る機会を得ていた。
それらの楽器は、楽器製作のメイン・ストリームとも言うべき現代クレモナスタイルの楽器とは明らかに一線を画していたけれど、そもそもそのクレモナスタイルがイマイチしっくりきていなかった自分にとって「これだ!これは面白い!」と思える非常に印象深いものだった。
ただその頃ポッジは日本でも20世紀を代表する製作家としてその名を広く知られるようになってきていて非常に人気も高く、歴史上の人物、と言ってもよかったし、サヴィーニは寡作で日本での知名度はそこまで高くなかったけれど、明らかにポッジのスタイルを受け継いでいたその楽器はとにかく音が素晴らしく、僕にとっては同時代に生きてはいるが「雲の上の名匠」であって決して「教えを乞う相手」として具体的にイメージできる人物ではなかった。
しかし工房ではサヴィーニやポッジの楽器を預かるたびに、よく見る現代クレモナスタイルと明らかに異なるつくり(バスバーやエッジのつくり、厚さどりなどいくつかのポイントでは寸法や形状など見た目にもわかる違いがある)を目の当たりにして、これにはどんな意味があるんだろう、と師匠としばしば議論になり、また意味を想像しては真似てみたりすることも多かった。
そんなある日。
工房に一本の電話が入った。
Mさんからだった。