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なぜ裁量労働制の議論が不毛になってしまうのか?

裁量労働制について後編記事のために色々と調べている中で、なんだか不毛な議論になってしまってるなーと強く感じるのですが、なんでだろうと思い、ちょっと考えてみました。

まず、横軸を労働者、縦軸を経営者とします。各々に悪意、善意を取り、そのマトリックスで考えてみます。

労働者側から裁量労働制を語る時、その主張は、「労働者の善意」かつ「経営者の悪意」を前提として「経営者は労働者から搾取しようとする」と論じられます。「定額働かせ放題」といったネーミングがその典型です。

一方、経営者や管理職側から裁量労働制を語る時、その主張は、「労働者の悪意」かつ「経営者の善意」を前提として、「労働者は、生み出す価値に対して不当な給与を要求しようとしている」と論じられます。「無能な高給取りが抵抗」といった主張がその典型かと思います。

この両極が対立することで、議論が停滞してしまっているように思います。

自身の善意 vs. 相手の悪意という構造で捉えてしまうと、議論は永久に平行線になり、不毛になります。

では、どうすればいいのか?

まず、法律や規則といった制度設計は、互いが悪意を持っても大丈夫なようにすべきだと考えます。

ブラック企業と言われるような搾取する経営者も存在する一方で、残業代目当てにダラダラと仕事をする労働者も存在します。

制度設計は、そのどちらに対しても抑止力として作用する必要があります。

同時に、現場でのコミュニケーションは、「労働者も経営者も善意」を持って仕事をしているという前提で考えたいなと思います。

搾取する経営者や、サボる労働者といった極端な悪例は悪目立ちしますが、
経営者にとっては、労働者から搾取することも、労働者にとっては、サボって高給を得ることも、どちらもほとんどの人にとっては嫌なコトじゃないでしょうか?

だから、日々のコミュニケーションは、お互いの善意の中でも生じる問題にフォーカスした方が気持ちよくないですか?
例えば、頑張ってる (長時間労働してる) んだけど成果を出せない人って、機械的に切り捨てられて良いんだっけ?みたいな。

「制度設計は両者の悪意を前提」として、「コミュニケーションは両者の善意を前提」として議論が出来れば、本質的な問題解決に向かうことが出来るのではないかと思います。

この「自身の善意」と「相手の悪意」を前提とすることで起きる対立は、裁量労働制に限らず、様々な不毛な議論の背景にある構造なのではないかと思います。

不毛な議論は、時間と労力と頭脳の浪費にしかならないので、建設的で発展的な議論がうまれる仕組みを作っていくことに貢献していきたいと思います。

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