穏やかな暮らしで忘れたくないこと
最近、エネルギー不足だと感じている。わたしのなかのエネルギーの話だ。
ふつふつとたぎる熱情に欠ける気がするのだ。すべてがちっちゃく収まっている感じが否めない。
考えてみれば、今のわたしは欲しいものがほどほどに入手できて、ほどほどに自由で、ほどほどに満たされている。家族がいるし、住む家に困るわけでもない。もちろん、上を見ればきりがないけれど。
若い頃は自分に足りないものを直視させられる場面が多くて、ぎりぎりと歯を噛み締めたこともあった。
大学生の頃は、貧乏学生というほどではなかったものの、自由になるお金が少なかった。
だから、「欲しい本をたんまり買ってやるんだ!」との思いをエネルギーにしてアルバイトをしていた。それで買った3千円、4千円オーバーの哲学書たちは輝いて見えた。清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入した『仏像図典』は今も大切にブックシェルフにしまってある。少しでも自分の知を養いたかった。
卒論で壁にぶち当たったときも「なんだこんな壁くらい」と、妙な馬鹿力が湧いてきた。わたしの人生で、あのときほど真剣に勉強に向き合った期間はない。
社会人になってからも、悔しさをバネにせざるを得ないことが多かった。差別的な言葉を浴びせられたときも、理不尽な事件に遭ったときも、こんなことで倒れてやるもんかと、必死にメンタルを立て直した。
じっくり思い返してみても、あれらエネルギーはどういうメカニズムで湧いてきていたのか理解ができない。わたしにあんな根性あったのね、と気が遠くなる。
でも、わたしは確実にあの日々からたくさんの真理を得て、生きることへの学びを深めた。
今のわたしは紆余曲折の末に穏やかな暮らしにたどり着いた。毎日困ったことや、乗り越えなければならない問題は生じる。それでも、おおよそは平和な生活を営んでいる。
そう自覚すると、いつも開高健の有名な言葉を思い出す。
昔、この言葉に出会って以来、書くという行為は一見なんの変哲もない大地から真理を掘り起こす作業に違いないと思ってきた。
それなのに、今のわたしはもしかしたら断崖絶壁を野原のように安穏と歩いているんじゃないかと思うことがある。これほどこわいことはない。
穏やかな暮らしは大切だけれど、懸命にエネルギーを燃やしてあれやこれやに戦いを挑んでいたあの頃を忘れたくないなあ、と思う。