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色なき色、音なき音を書くために
お神輿に遭遇した。
用事でちょっと離れた町へと出かけたら、年季の入ったお神輿が交差点で向きを変えようとしているところに出くわしたのだ。大阪にはお祭りが多く、時季になるとお神輿を見かける機会がときどきある。
どうも試験曳きのようなものだったらしい。お神輿を取り巻く人々の数も少なく、見物人も多くはなかった。
それでも、ゆっくりとスクランブル交差点で転回するお神輿を見ていたら、じわっと心にこみ上げるものがあった。
こぢんまりしたお神輿だけれど、きっと地元の人がたくさん関わっていて、大勢の人の思いをのせているに違いないと思えた。
地域によってはお神輿まわしが危険だと言われることもあるし、批判的な意見があるのも見聞きする。
それでも、きっとその土地で長い歴史を背負ってきたものだから、今まで続いているのだろう。あのお神輿は地域社会の象徴みたいなものなのだろう。お神輿が表す人々の暮らしや地元への思いがぼんやりと伝わってくるから、わたしの胸はじわっと熱くなったのだと思い当たった。
小ぶりながら勇壮なお神輿が回っていくあの景色は、わたしが書く理由に似ていると思った。
なかなか表層に浮かび出てはこないけれど、たしかに胸のうちにある思いや願いがある。あるいは、はっきりと主張する性格ではない人が熱い思いに突き動かされて生きていることもある。
そういうものを書きたいなあ、といつも思っている。
昔、対談で「普通の人が書こうとしないものを書こうと四苦八苦するのが書くことの大変さであり、喜びでもある」というようなことを語っていた作家がいた。
わたしはそんな立派な存在ではないけれど、意味することはなんとなくわかる。色なき色、音なき音を表現しようとするのが「書く」という営みだ。
だから、今はこのあいだのお神輿の後ろにあるものを透かし見ようと眉間に皺を寄せている。人とモノの向こうには必ず思いがある。わたしはそれを書いていきたい。