100万円は二度とける
歯並びが悪くなってきた。1本の前歯が斜めになりはじめてもうずいぶん経つ。
今はいろいろな歯科矯正があると聞くから、やってみたいなあ、なんて思う。それなのに、なんとなくためらっている。二度も矯正するのはどうなんだと感じてしまうのだ。
わたしは高校生の頃に歯科矯正をした。ワイヤー矯正である。
器具を歯に装着してしてからしばらくのあいだ、強烈な痛みに襲われておうどんしか食べられなかったのを、昨日のことのように憶えている。痛みに強いと人さまから言われるわたしがそう思うのだから、けっこう痛かったのだろう。
「もうー、100万円だって!!」
家でおうどんをすするわたしのそばで、母がぼやいていたのも憶えている。歯科矯正にかかった費用のことだ。正確に言うと115万円くらいだったらしい(先日、母に聞いた)。貧乏ではないが裕福とは言えなかった家庭にとって、そうとうな大金だったはずだ。
わたしは幼い頃に指を吸う癖があったせいなのか、前歯2本が斜めに生えていた。ハの字になった前歯のせいで、笑うとちょっと面白い印象になってしまう。それをずっと気にしていた。
100万円以上かけてもらったおかげで、1、2年後にわたしの歯並びはきれいになった。
30歳すぎに結婚式を挙げたとき、わたしのウエディングドレス姿を見た友人はなぜか「歯並びめっちゃきれいやん!」と褒めてくれた。晴れの日にもかかわらず、ほかに褒めどころがなさすぎて困ったのだろうと推察する。
おかげで(?)晴れがましい場も臆することなく過ごせた。
そんなわたしの歯並びに不穏さが漂いはじめたのは、娘たちを産んだ7年前だ。
もともと食いしばり癖があったのに加え、双子が同時にわあわあ泣いたり、寝不足が続いたりする状況に歯を噛みしめて耐えることが増えた。彼女たちがかんしゃくを起こしてわめき続けたときも、広い道だからと横型双子ベビーカーを押して歩いていたら高齢の男性に「邪魔じゃ!」と怒鳴られたときも、つい歯を強く噛み合わせてしまっている自分に気づいてあわてた。
娘たちが4歳になる頃、わたしの前歯は斜めになっていた。「あ、歪んできてる」と悟ったときには脱力した。高校時代、大金をかけてもらい、あんなに痛い思いをして手に入れた歯並びだったのに。
でも、わたしは歯を強く噛み合わせる行為で自分を保っていたのかもしれない。育児が大変だったあの頃、食いしばれたからこそ娘たちにつらく当たらなくて済んだのかもしれない。耐えるためのすべがなかったら、娘たちに手をあげることだってあったかもしれない。
そういう意味では、歯がわたしと娘たちを守ってくれたとも言える。
ずっと昔、母がかけてくれた100万円はきれいな歯並びへとかたちを変え、さらに20年後には歪んでおじゃんになった。二度も溶けたお金に、感謝してもしきれない。
そして、一人で育児のつらさに耐えようとしてしまう人が少しでも減ればいいなあ、と思う。