誰かと誰かがつながる世界で
ここのところ、「こわいわぁ……」とつぶやく機会が増えている。
なにがこわいって、旧友や昔の同僚・知人たちが思わぬところでつながるようになったことだ。そういう話を見聞きする。
30年来の女友達は、たまたま私の義弟と同業で、同じ学会に所属している。「先月、学会で○○先生(義弟)とまたお会いしたよ」そんな話をしてくれる。仕事でもメールのやり取りをすることがあるのだそう。
数年前、初めてそれを知ったときは「まさか!」と思った。世の中、狭すぎない? 胸がざわざわ。
子育てが一段落したので大学院に通いはじめたところ、昔の知り合いと同級生になった友人もいる。
私だって、思いがけないつながりに驚いたことがある。
ある企業に入社して一年ほど経ったとき、新しい直属の上司が、私の両親と同郷であることが判明した。しかも、よくよく聞けば、小学校から大学まで、私の母の2年後輩だったという。郷里にいたときはもちろん、東京にある私立大学の県人会でも、二人は顔を合わせていたと聞いた。母も、上司のことをしっかり覚えていた。
こ、こわい。世間知らずなペーペー社員だった私は震えあがった。
どこで誰がつながっているかわからないのが世の中だ。そう思うと、心正しく生きなければならないと緊張した。変なことはできない。そのわりにしっちゃかめっちゃかな人生を歩んできた気がするけれど。
また先日、本屋さんで「これ、面白そう!」と手に取った新書は、大学時代の後輩が著したものだった。いやー、こわい。売上にぜひ貢献しようとレジに直行し、購入した。
こんなことがあまりにたくさんあって、最近の私はすっかりいい子ちゃんである。自分のふるまいは、どこかの誰かを通じて知人の耳に入ったり、思いもよらぬところで見られていたりするに違いないと、背筋を伸ばす。
だから、人に優しくするのは、一種の打算なのかもしれないと思うことがある。めぐりめぐっておかしな評判が立つのは避けたいから。
こうして大人は自由や奔放さを失っていくのかもしれないけれど、無用に人を傷つけることも減っていく。自分にとっての「世間」が狭まっていくのは、息苦しくもあり、優しさの可能性が広がっていくことでもあると感じる。
「実は△△さんとは知り合いなんだよね」
この手の言葉をかけられるたび、ギョッとしつつ気を引きしめ、しっかり生きようと思わされる。目の前にいる人の向こうにも、きっと誰かとのつながりがあるんだろうなぁ……。