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頼む、頼まれるの最適解

「頼まれる」ことについてぼんやり考える機会があった。

友人が「最近、頼まれた仕事しかやらない人が多くて困る」とこぼすのを聞いた。なんでも「〇〇をお願いします」と依頼すると、絶対に〇〇しか仕上がってこないのだそうだ。依頼したのは〇〇であるからして依頼者側から文句は言えないが、多少の気を回してもう少し踏み込んだ作業までやってくれたらいいものを……という気持ちになってしまうらしい。

かと思えば、こちらが頼んでもいないことを「やりたくない」とおっしゃる方もいた。

我が家を訪れた人がこの家について「南向きの角地なんて、頼まれても住みたくないわあ!」とおっしゃったことがあった。「陽当たりがよすぎて夏場はエアコンきかないでしょ。冬もみかんとか腐りそう。頼まれても住みたくないわー」と重ねられていく言葉。

たしかに夏場は強い陽光に困ることもあるが、我が家につけられたブラインドの半分は遮光仕様になっているし、高断熱かつ高気密ゆえにエアコンも問題なく機能する。

住んでほしいと頼んだ覚えはまったくないけどなあ、と苦笑いした。

思えば、昔、初対面の方に「私、双子なんて頼まれても育てたくない」と言われたこともある。うちには双子の娘たちがいるので、双子育児の大変さを労ってくれるお気持ちからの発言だったろうとは思う。でも、わたしはなんとなく悲しくなってしまった。

最初に引っ張ってきた「頼まれた仕事しかしない人」は、言い換えれば「頼まれた仕事はきちんとする人」である。

あとの二つのケースは「頼まれてもいないことに関して発言した」ものとして、わたしのなかで引っかかっている。

「頼まれていないこと」に手を出すには、その人自身のセンスが問われるのかもしれない。また、頼んでいないからこそ、その仕事がどう仕上がるのかについて依頼者側は予想できないことも大きなリスクではないだろうか。引き受ける側としても、頑張ってこなしたのりしろ的仕事が「それ、頼んでいませんが?」と言われる可能性がなくはないのだ。

そう考えると、「頼まれていない」範囲をどう料理するのかは個人の裁量にかかっている。

過不足なく働き、過不足なくしゃべる。それだけでは寂しいけれど、頼まれごとの範疇をどう飛びだすか。これって案外難しいことなのかもしれないと思っている。

最適解を見つけるまで、わたしなりに走ってみよう。






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