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太宰治賞受賞作 今村夏子『こみらあみ子』を読んで
今回は珍しく書評です。最近、やけに読書熱が高まってガンガン読んでいるので、せっかくだから書評もやってみるかと思った次第。
今回取り上げるのは、今村夏子さんのデビュー作で第二十六回太宰治賞受賞作の『こちらあみ子』。太宰治賞は原稿用紙50枚から300枚の賞だが、この作品は比較的短い。また、6章に分けられているので働いている人も読みやすいと思う。
あみ子という少し変わった女の子が主人公の物語は、3人称で進められる。文体はそれほど癖のあるものではないけれど、臨場感はある。例えば、
「母が退院して帰ってくる日は牡丹雪が降っていた。あみ子は家の外で、降ってくる重たそうな雪片を手でつかまえたり、つららを舌の上で溶かしたりして、母の帰宅を待っていた。長い時間待ちすぎて、母が父の車で帰宅したときには、「おかえり」と発声したつもりだったけれど、上下の歯が前歯がガチガチ音を立てただけだった。」という文章。別にここだけ特に書きこまれているわけではないけれど、母親が退院するのを待っている場面で細かい描写がなされている。全体的に『こちらあみ子』の物語のカメラはややアップで、こういった細かいディテールを疎かにしていない文章が言葉の面白さを伝えてくれる文体だ。
話の内容に関しては、僕の筆力で上手く表現するのはかなり難しい。
あみ子というちょっと(かなり)ズレた主人公の小学校低学年から中学校卒業までの話なのだが、このあみ子、とにかく家族や友達からまともに取り合ってもらえない。この作品は活き活きとした、本当に子供が喋っているかのような言葉が印象的なのだが、あみ子の言葉は作品内の人物にイマイチちゃんと伝わらないし、あみ子はあみ子で人の言葉をしっかり受け取めたり家族に起こっていることを把握する力に欠けている。また、学校の給食で「インド人のまね」と言ってカレーを手で食べたり、チョコクッキーのチョコだけを舐めとったりもするのだ。
思いを寄せているのり君にもまったく好かれていない上、イマイチそのことに気づけていないし、母親の死産もピンと来ている様子はない。この小説は発達障害という言葉が定着するより以前の作品だが、2024年なら発達障害小説と言われるかもしれない。さらに、家族のあみ子に対するぞんざいな扱いや風呂に入っていない、字がまともに読めないというところであみ子は一種のネグレクトをされているように感じる人もいるだろう。
でも、僕は『こちらあみ子』をそのような物語として読まなかった。上手くは言えないけれど、子供というのは自分だけの、誰とも共有できない宇宙のようなものを持っているものなのではないかと思うのだ。自分だけに見えるもの、自分だけに聴こえるもの(この作品内ではそれは幻聴ではなく原因があるが)、自分だけが行ける場所に、自分だけが想っている人。その世界は孤独だが、子供というのは、人間というのは、自分だけの世界にいる孤独なところから人生をはじめるのではないだろうか。
主人公のあみ子は親にトランシーバーを買ってもらう。このトランシーバーは特に機能しない。生まれるはずだった弟(あみ子は弟と思っているが実際は妹だった)と交信することを楽しみにしていたあみ子のこのトランシーバーは、子供が自分以外の人間と意識的に交信するということを示唆していたのではないか。
作品タイトルは、太宰治賞受賞の時点では『あたらしい娘』だったらしい。個人的にはやはり『こちらあみ子』のほうがいいと思う。
「もしもし、わたしの名前は〇〇だよ」と、そうした経験を経て、誰しも子供時代の孤独が終わる。「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」と、作中であみ子は言う。これは子供が自分の世界と他者の世界を結ぼうとする試みにもなる言葉だ。
作中の最後にあみ子は名前を呼ばれ、また竹馬に乗ってなかなか近づいて来ない友達を見ている。ひとりの子供がなかなか来ない他者、友達を待つというラストが、この作品を印象的なものにしていると感じた。