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特に障碍者として理解されたくはない
ジム通いで栄養とトレーニングについて調べるのが趣味になってしまった。まあそれはともかく、今回は持病の話。
僕はときおり自分が双極性障害であるということをXの投稿で言ったりする。しかし僕自身は、持病である双極性障害を過剰にアイデンティティにしていない。良くも悪くも、自分の個性や人生とは関係ないという感じだ。たまにXのアカウント名に自分の病名を入れている人を見るけれど、あれもあまり意味が分からない。僕自身は双極性障害と強迫性障害の併発で第2級精神障碍者となっているが、それが自分の人生に特別な意味を持っていたことはないはずだ。
確かに、病気を持っていると人より辛いことは多い、それは間違いない。事実、僕も病気が人生の邪魔をし、僕自身が誤解される原因は病気だとも思っていた。
しかし強迫性障害について父親になんとか説明しようとしたところ、「君はなにを一生懸命、言い訳をしてるんだい」と言われてしまった。僕はとても恥ずかしく、無力感を抱き、それ以来、双極性障害や強迫性障害について人に理解してもらおうとしたことがない。健常者は絶対に障碍者のことがわからないし、逆もまた然りと思うようになったのだ。
それにである、障碍者って確かに大変だけれど、そんなに人に理解を求めてどうするというのだろう。理解されないだろうというのはもう書いたけど、もうひとつ言うのなら、理解されて配慮されたところで病気は治らないだろうという思いがある。
さらに、障碍者は大変だけれど、健常者も大変なのだ。なので、僕は『五体不満足』については最初から理解できなかった。「いや、大変かもしれないけど、知らねえよ」という感じだったと思う。少なくとも、障碍について自分から言うなよとは感じた。
こういうのは、病気に限った話じゃない。ヤングケアラー、宗教2世、虐待された……、そんなことを言ってても人生は続くし、仕方がないと思うのはおかしなことだろうか。どんなトラウマを語ったところで、世間の人はそれでその人のいたらなさを許したりはしない。ハッキリ言うけれど、病人からしたら他人なんてみんな冷たいし、社会だって冷たいのだ。その中で生きて行くしかない、そう思っている。(世間に復讐したいなら、私小説を書くしかないのではないか)
むしろ大事なのは、病気をアイデンティティにせずにちゃんと闘病を続けることだろう。特に僕なんかは、2ヶ月に1度、約140,000円が障碍者年金として支給されるのだ。これはかなり大きな額だ。僕の時給に換算すると、本当になかなかのものになる。これは「国指定の難病だから援助しますよ」ということではあるが、それ以上に、「これだけもらったら、ちゃんと闘病しろよ」という意味だと思う。障碍者は、ちゃんと病気や薬の勉強をしているのだろうか。
なんとなく同情されて理解されたかのように振舞われることより、各々が闘病姿勢を見せることのほうが大切だろう。僕はずっとそう思っている。