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小説を書くということは 誰かがこういうことを言わなければいけない
今回の記事名、なんかめちゃくちゃハードルの高いものにしてしまった。でもそんなに大袈裟な話ではないので、ちょっと読んでくださいな。
8月は職場とスーパーの往復だけで、ほとんどを自室で過ごした。執筆はあまりできなかったけれど、本に関してはそこそこ読めた夏だった。また、ネットサーフィンもよくやった。今まではXのトレンドワードなんかはあまり見なかったけれど、そういうものもけっこう追いかけた気がする。
そうしていく中で、最近の世の中における潮流みたいなものもより一層感じるようになった。それはなにかと言うと、行き過ぎた公共心や正義感、そして乱暴で短絡的な意見の横行というものだ。ここ10年くらい、自粛自粛自粛という雰囲気に不満を述べる人は多かったし、僕もそう思ってはいたけれど、その認識を新たにしたのが8月だった。そんな感じだ。
とにかく昨今の「ネガティブなものはよくありません」「悪を排除してなにが悪い」という風潮は、その理屈が正しいからこそなかなか反論するのが難しい。先日も30年以上前のある凄惨な事件がXのトレンドになり、「少年法なんていらない」という感情論の投稿が大量にあった。こういうことに違和感を持つのはおかしいだろうか。
誤解のないように言っておくと、僕はなにも世の中が不道徳になればいいと言っているのではないし、凶悪犯罪を知って義憤に駆られることが悪いとも言わない。むしろそれは正しいと思っている。でも、正しいことをただ正しいという理由だけで肯定してしまうのは、あまりいいことではない。そんな気がするのだ。
「小説」というのは、元々は「小さな話」「取るに足らない話」という意味らしい。これは歴史に名を遺すような人の話ではなく、あくまでも民が共有する物語、といったところだろうか。また、「ノベル」というのは「Nova(新星)」が由来と聞いたことがある。僕はこのことから勝手に、小説というのは「取るに足らない人の新説のようであれ」ということなのだと思うようになった。言ってみれば、俗説の肯定、あるいは巷間の常識とは違った話ということだ。なんらかの極端な正論で塗りつぶされて息苦しくなった世の中に、「こういう生きかたや意見もあるんじゃないですか?」というものを提示する。それが小説の力だ。
この小説の力を養うためには、乱暴な見解を解きほぐすことが重要だと思っている。「この人は本当に悪人なのだろうか」「その意見って本当ですか?」という精神だ。こういうことを言うと、「犯罪者に共感するな」といったことを言われるし、「実際に悪い人が近くにいたらあなたも嫌だろう」と反論されたりもする。でも、ちょっと待ってほしい。
僕が言いたいのは、世の中の暗部を肯定しろということではない。そうではなくて、どんなことでも乱暴に結論づけてはいけないということだ。それがどんなに整合性のある理屈であっても、反対者の立場をまったく考えない極端なものであれば拒否する、そういった世の中の傍流に光を当てるというのはとても大切なことだと考えるのだ。だからこそ古今東西で小説を読むというのは少数派のものだったのだろう。
もっと単純な話にしてもいいかもしれない。例えば、「みんなが『ダメだ』と言うから、自分くらいは『いいんじゃない』と言おう」というのでもいい。
イギリスに、カーカスというデスメタルバンドがある。カーカスの曲名は『死体愛好癖』とか『人体ジグソーパズル』とか、ちょっと酷いものなのだが、リーダーのビル・スティアはインタビューで歌詞の意味について訊かれた際、「若いバンドが悪ふざけをしていたということ。それと、『誰かがこういうことを言わなければいけない』という思いだった」と答えていた。これは単に禁を破ることが芸術的だということ以上の示唆があるだろう。
この言葉の意味、小説を書いている人ならわからなければまずいと思う。