物事を見ようとしないということ
最近、ラジオを聴く習慣が戻ってきた。引っ越し前はよく聴いていたのだが、特に理由もなく習慣がなくなっていたのだ。しかし勤務時間が変更されたこととYouTubeのお世話になって、再びラジオを楽しむ生活に。
しかし昼のラジオを聴いていると、途中に挿入されるニュースがけっこう惨い。この10ヵ月近くニュースから離れていたので、悲惨なニュースに対する耐性がなくなっていた。試しにテレビのニュースを観ても、やっぱり世も末という感じがする。日本ってこんなに物騒だっけ? なんて暢気なことまで考える始末だ。
しかし、20代の頃は必死に社会とつながりを持とうとして、悲惨なニュースのその先を追ったりしていた。目を背けたくなる事実を見詰めるのがなにか自分の役割だと思っていたのだ。母親もかなり社会派の人だったので、悲惨なニュースを見詰めていた記憶がある。
正直に言えば、悲惨なニュースというのはしんどい。僕は犯罪ルポルタージュをよく読むのだが、そういったものは冷静なルポライターが書いているので悲惨さが中和されているが、あえて扇情的に報道するテレビやラジオは気が滅入ってしまう。
それでも悲惨なニュースからなにかを学ぼうと思っていた20代の頃、山口県光市母子殺害事件の報道があった。家に帰ったら、妻と子供が殺されていたという悲惨な事件で、犯人は未成年だった。世論は「もう少年法には我慢ならない」という感じだったと思う。母親は、「なぜこんなに世間はヒステリックなのだろう」と憤っていたが、僕としてはこの事件にどう反応していいかわからなかった。僕は10代にはまだ正常な判断力がないことから少年法には賛成だが、凄惨な事件を見るたびにそれでいいのかなと思う。母親はそんな僕を「感情に流されている」と批判したが、僕は山口県光市母子殺害事件に関してはなんとも言うことができないままニュースを追っていた。
そんな時、僕の兄が「この人のニュースは見たくないからチャンネル替えて」と言った。兄は昔から終戦記念日の特攻隊報道とかを気が優しすぎて見られない人間だったのだが、この事件の時もやはり見たくないと言った。僕は20代当時は真実を求めるより物事を見まいとする兄に否定的だったのだが、今になって、なにも意見を言うことができないほどの悲惨な事件は「見たくない」というのもひとつの正解なのかなと思うようになった。