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「正義の反対は別の正義」と言うけれど 公正さと引き換えに失うもの

 いきなりだが、日本人には意識的に信仰する宗教がない。誤解のないように言っておくと、これは無宗教という意味ではなくて、教義化された宗教の勉強を子供の頃からするという国ではないということだ。これをいいと思うかどうかは人の勝手だけれども、日本人は宗教の教義を勉強して獲得しないというこの文化によって、ひとつの弱点を抱えているとは思う。それは「人が信じる正義を心から尊重できない」ということだ。
 「戦争は正義対悪じゃない、正義対別の正義だ」という小賢しい言葉の出所が日本なのかそうじゃないのかについては、僕は知らない。ただそれでも、日本人が好きそうな言葉だなとは感じる。どういうことかというと、この言葉の根底には多神教の価値観があるということだ。
 多神教は一神教と違い、絶対神・唯一神がいない。信じるものが時と場合によって変わるのが日本式多神教の特徴だろう。
 こんなことを言うといかにもとってつけたような社会学みたいになってしまうが、日本が世界の中でもサブカルチャーが盛んなのは、この辺りにも理由があるのではないか。つまり、絶対的な正義となる価値観を全員が信じていないので、次々と新しいスタンダードが生まれるということ。トップダウンの教育方針が文化面においてはあまりないという特色によって生まれたものは多いだろう。なにも海外にインディー精神がないとは言わないが、日本のサブカルチャーは「反主流」というステートメントを必要としたものではないと思う。「アンチクライスト」ではなく「こっちの神さまもいいよ」的な価値観と言うべきか。

 しかし日本はそういった価値観が基盤としてあるから、「誰がなんと言おうとこのジャンルが一番凄いに、神さまみたいなものに決まっている!」と言いにくいという国でもある。日本でそういうことを言うと、「他のジャンルを否定しちゃダメだよ」となるのだ。このフェアな精神は確かに平和だし、僕自身もどちらかと言うとフェアネスにはこだわる。でも、そういった世界に慣れすぎてしまうと、絶対的に信じているものがある人と対話することができなくなってしまうのではないかと危機感も持つのだ。
 僕はヘヴィメタルの、ちょっと人から馬鹿にされるようなところも含めて好きなので、以前、自分の先輩に「メタルもまあ、馬鹿にされてこそですよね」と言ったことがある。先輩の答えは、「それはヘヴィメタルに真剣に熱狂してないから言えることだわ」だった。確かに、その通りだ。

 話は少し大きくなってしまうが、日本人は思想や宗教や教義を育てていくという部分が弱いがために、人が信じているもののことも「宗教臭くて恐い」「キモイ」と言ってしまうのだろう。日本人が政治の話を公の場でしないのも、自分と異なる思想に対して「この人もこの思想を獲得する努力をしたのだろう」と想像することができないからではないかと思ってしまうことがある。多神教の人間は、一神教の人間と対話するために踏まなければいけない段階がとても多くある気がする。
 日本人はケンカが下手と言われるが、厳密にはケンカに意味を見出せないのではないか。「まあいいじゃん、どっちも神さまってことで」って、本当にそれでいいのかなあ?

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