人を愛することは、修行なのかもしれない
誰かに愛情を持つことは、勇気がいることだと思う。
友人、家族、恋人。
目の前の人の愛し方には、独特の個性が出るように思う。
相手が誰かによって、その方法を無意識に選んでいるようにも感じる。
たまに我に返って、自分の愛情表現について考える。
考えたところで、答えなんてないんだけれど。
私は、人を信じるのが苦手だった。
ほんのつい、最近まで。
その背景には、自信の無さもあったと思う。
何をやっても、どこか欠けている方に意識が向くのが私の思考の習慣で。
学生時代にも先生から「木村は100人のうち99人が褒めても、1人がダメ出ししたらそれを気にするタイプだな」と言われていた。その通りだと思う。
自分に自信なんてない。だけど、目の前の人は私に愛情を注いでくれる。
その温かさに触れるということは、愛されている実感を経験するということで、欠落している自分を認めていくプロセスだった。
怖かった。
いつかこの愛情も消えて無くなってしまうんじゃないか。
この関係性が冷えないように、あったかいままでいられるように必死になった。
たくさん失敗もして、不必要に相手を傷つけた。
たくさん泣いたし、自分の言動を後悔して落ち込んだ。
だけどだんだん、自分の作り出す「怖さ」と言うまやかしに気がつけるようになってきた。
実際に起こっていることだけに目を向けると、ただただ私は愛されているんだと気づく。
その事実に目を向けることすら、初めは戸惑いを覚えたけれど。
だけど、きっとそのもどかしさや恥ずかしさが、私の中の何かを変えた。
人を信じても、大丈夫なんだと思えるようになった。
そうするとなんだか、人を愛することも浸透していく気がした。
愛情を受け取るというのは、自分を受け入れていくことだから、勇気がいる。
だけど、その本質に触れた時、人は自分にとって必要な何かを学ぶんじゃないでしょうか。
私もそんな愛の循環を生み出せる関わり方をしたい。