普通の人が残酷になる仕組み。ホロコーストと第101警察予備大隊
人気番組に出演していた女性が自殺しました。まだ22歳でした。番組内容をきっかけにSNS上で誹謗中傷が続き、苦しんでいたそうです。
こういう、本当に悲しい事件が後を絶ちません。そして毎回考えてしまうのは加害者の心理です。なぜこんなことをするのか、正直、まったく理解できない。
では、加害者たちは普通の人とは感性が異なる、生まれながらの残虐な異常者なのでしょうか。
それは違う気がします。SNS上の誹謗中傷で逮捕される人たちの多くは、普通に社会人生活を送っているようです。
ますます意味がわからない…
こんな感じでモヤモヤしていた時に出会ったのがChristopher R. Browningの「普通の人びと - ホロコーストと第101警察予備大隊」でした。
ナチスドイツのユダヤ人大虐殺(ホロコースト)は人類史に深く刻むべき残虐な蛮行の極みですが、この実行部隊のひとつが第101警察予備大隊です。
ドイツ占領下のポーランドにおいて、3.8万人ものユダヤ人を殺害し、4.5万人以上の強制移送を実行しました。
著者がこの第101警察予備大隊に注目した理由は、彼らが「普通の人びと」によって構成されていた部隊だったからです。
よく知られている通り、ナチスドイツでは強烈な人種差別と反ユダヤ主義のプロパガンダ(特定の主義・思想についての宣伝のこと)が喧伝されていました。教育システムも改変されています。
ナチスのプロパガンダがどんなものだったか、興味がある人はぜひ「意志の勝利」をご覧ください。1934年にナチス政権の依頼でLeni Riefenstahl監督によって製作されたプロパガンダ映画です。衝撃受けます。
こういった影響をもろに受けたのは若者でした。とりわけ、ナチスが1933年に政権を掌握して以降に教育を受けることになった人たちです。
しかし、第101警察予備大隊の隊員たちは中年男性で構成されていました。彼らの多くはナチスドイツ成立前に教育を受け、思春期を過ごしました。戦後に実施された調査では、彼らの多くが人種差別的イデオロギーにほとんど影響されていなかったことがわかっています。
加えて、彼らの多くは従軍経験すらなく、予備大隊に入るまで銃を撃ったことも撃たれたこともありませんでした。それまでは薬剤師や職人、木材商などの一般市民として家族や友人と普通に暮らしていたのです。
それなのに、同じように日々を穏やかに過ごしていた大勢のユダヤ人を一方的に、身の毛のよだつ方法で、日々殺戮を繰り返していた事実。なぜこんなことが起こってしまうのか、当時の記録を徹底的に調査することによってそれを明らかにしたのが本書です。
そして著者自身が述べているように、その調査で示唆されたことは、どんな人間も平時には想像もできないような残虐行為に加担してしまう可能性があるということでした。ある条件が整ってしまった時には。
そしてこの「ある条件」は、現代社会の中にもしっかり組み込まれているのです。むしろ、当時より多くの人に当てはまっている気さえします。
対象のステレオタイプ化
1942年7月13日、第101警察予備大隊の隊員たちにポーランドのユゼフフ村で暮らしている約1,800人のユダヤ人を襲撃する任務が初めて与えられました。働くことのできる年代の男性は強制労働の収容所に送り、残りの女性、子ども、老人はその場で射殺せねばならない、というのです。
これを命令した大隊の指揮官は、落ち着きを失っており、息苦しそうな声で涙ながらに話していたと多くの証言が残っています。
この時、指揮官は通常では考えられないことを言いました。「与えられた任務に耐えられそうにない者は、任務から外れてよい」
この時、瞬発的に名乗り出たのは約500名の隊員のうちたったの12名ほどでした。名乗り出た隊員の所属する中隊長は彼らを激しく叱責しましたが、指揮官が割って入りました。その他の多くの隊員もとても動揺しましたが、名乗り出ることはできませんでした。(この理由については後ほど深掘ります)
その後、実際に殺戮が始まってからショックを受けて任務から外れた隊員や、うまい具合に任務中に隠れた隊員がいましたが、それでも全体の10~20%ほどと推定されています。大隊の80%~90%にあたる400名以上は任務を完遂したのでした。
この時、少なく見積もって1,500人のユダヤ人が殺されました。
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戦後、彼らは尋問されていますが、実際に殺戮に加担したほとんどの隊員の共通点として被害者をステレオタイプ化していたことが明らかになっています。
「ユダヤ人」という抽象的なくくりで人間を捉えることです。「ユダヤ人は悪だ」といった具合に。でも実際のところ、この世に「ユダヤ人」なんて人間はただのひとりもいません。そこにはアロンさんがおり、ヤコブさんがいるだけです。
しかし、この人種のステレオタイプ化が隊員の脳内で行われた時、被害者は人間とは違う抽象的な存在になります。
隊員はこの異常な任務の実行にあたり、自分たちを正当化をし、心を守るために、被害者を「悪いユダヤ人」としてくくり、順応したのでした。
しかし、先に述べた通り隊員たちの多くはナチスの反ユダヤ主義的なイデオロギーにどっぷり浸かっていたわけではありません。この虐殺の結果、指揮官をはじめ多くの隊員は神経を病むことになってしまいます。
ナチスの指導者にとって、このやり方では当初の計画であった欧州のユダヤ人根絶が困難なのは明らかでした。ユダヤ人の殺害に対して、隊員たちの精神的負荷を軽減し、より「効率的」に実施する必要があったのです。
そこで考え出されたのが分業化でした。
分業化による無感覚
ユゼフフ村の虐殺の後、第101警察予備大隊の主な任務はゲットー(欧州諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区)の浄化やユダヤ人の強制移送に向けられることになります。直接的にユダヤ人を殺戮する舞台が、絶滅収容所にうつされたのでした。
絶滅収容所への移送を伴わずその場で虐殺する必要がある場合(主に交通網の問題)は、大隊の隊員はユダヤ人を居住区から離れたところに連行し、直接的な殺戮作業はナチスの親衛隊に訓練された外国人部隊に引き継いだ。
ゲットーのユダヤ人を刈り集め、絶滅収容所に連行する作業は極めて残虐な行為でした。身体が弱く隊列を乱すものはその場で射殺。移送の列車内も、夏の暑い日に食べ物も飲み物もない状態で人があふれ出んばかりに詰め込まれており、トイレもありません。この状態で数日かけての移動でした。現地に到着する前に多くの人が途中で亡くなっています。
しかし、これで隊員たちの心理的負担はかなり軽減されました。
先のユゼフフ村では自ら銃を握り、目の前のひとりの人間と対峙して引き金を引かなければなりませんでした。刈り集めから殺戮までの一連のプロセスを自ら行う必要があったのです。
でも今回は、多数のユダヤ人をチームで刈り集め、警護し、指定された地点までいったら引き継いでおしまいです。この作業を繰り返し行えばよいだけ。
実際のところホロコーストは、多くの人間の些細な関与をつなぎ合わせることによって行われていました。官僚が机の上で殺戮計画を立て、幹部が殺戮命令をだし、それが指揮官に伝達され、隊員たちはユダヤ人を刈り集め、別の人間が列車で移送し、絶滅収容所で担当者がボタンひとつで殺戮する、また別の人間が死体を処理して次の殺戮の準備をする、といったように。
しかし言うまでもないことですが、このシステムによってより多くのユダヤ人が「効率的に」虐殺されています。被害者からすれば隊員たちはより残虐な行為に加担しているわけですが、その意識は当人たちにはありませんでした。戦後の尋問では、最初のユゼフフ村の虐殺と異なり、一連の強制連行は隊員たちの記憶からほとんど消えていました。印象に残っていないからです。
これはいわば、殺戮の非人格化でした。視野に入らないことは心にも入らないのです。
このプロセスでユダヤ人の蹂躙に慣れてしまった隊員は、その後自らユダヤ人を射殺する任務があっても精神を乱すことはなくなりました。隊員たちは徐々に「効率的で無感覚な執行者」になっていったのです。
「正義」の執行と仲間との関係性
しかし、繰り返しになりますが大隊の隊員たちは非人間的な異常者ではありません。ユゼフフ村で殺戮を命じられた際も多くの人が動揺し、実行後は精神的に大きなダメージを負いました。
ではなぜ、多くの人は命令を拒否することができなかったのでしょうか。特にユゼフフ村のケースでは指揮官が「与えられた任務に耐えられそうにない者は、任務から外れてよい」とまで言っているのです。その後も、殺戮任務を拒否した隊員に対し組織として厳罰を加えることもありませんでした。
それでも結局80~90%近い隊員が任務を実行しています。
ひとつの理由として考えられるのは、人間は社会に認められている権威(=その社会の正義)に役割を与えられるとそれを演じてしまう傾向がある、ということです。
この人間の本能を示唆するものとしては、1971年にスタンフォード大学で行われた監獄実験があまりに有名です。
この実験はドイツで映画化もされました(最近はアメリカでリメイクも)。個人的にはどんなホラー映画よりも恐ろしかったです。
実験の内容は、一般市民を無作為に選び、看守と囚人に分けて模擬監獄に入れる、というもの。あからさまな暴力は禁止されていましたが、看守はこの実験の期間中により多くの囚人を統制する方法を工夫しなければなりません。
なお、あらかじめ心理テストによって異常な権威主義的パーソナリティを持つと判断された人はこの実験には参加できなかった。つまり、参加者は普通の人で構成されていた。
看守は急速に野蛮性を表し始め、屈辱的な手法で囚人を扱うようになりました。本来実験期間は2週間でしたが、あまりに危険と判断されて6日で終了しました。
この実験を設計した心理学者はこう述べています。
「我々にとって最も劇的で、かつ悲惨な観察は、『サディスティック・タイプ』でなかった人たちが、サディスティックな行動をいともたやすくとってしまうということであった」
監獄状況だけで「倒錯した、反社会的な行動を生み出すのに充分な条件」だったのです。いわんや、戦争という極限の状況では…
なお、1963年にイェール大学で実施された「ミルグラム実験」でも似たような結論が得られています。人間は本能的に社会活動を組織した人間(=権威)に対して好意をもち、その組織や体系を維持しようとすることがわかっています。
「そんな愚かな…」と思いますが、この本能が進化の過程で人類に備わったからこそ、ここまで発展してきたともいえます。Yuval Noah Harari教授の「サピエンス全史」でもこの点が語られていました。
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隊員たちが殺戮命令を拒否出来なかったもうひとつの理由としてあげるのが、仲間との関係性です。
自分個人が命令を拒否したところで、結局は他の戦友がやることになります。そうすると、当然周囲から「腰抜け」と軽蔑されることになってしまいます。
いくら組織から罰せられることはなくとも、これは隊員たちにとって堪え難いことだったようです。何万人もの人の命を一方的に奪うことよりも。
これは加害対象をステレオタイプ化することによって意識的に人間としての道徳や責任の範囲の外に置いたことと、仲間からの同調圧力が先の実験で示されたような、権威に本能的に追従する人間の傾向を加速させたものと考えられます。
現代社会に組み込まれている危険な装置
戦争が終結するまでに、第101警察予備大隊の隊員たちは3.8万人ものユダヤ人を殺害し、4.5万人以上の強制移送を実行しました。
忘れてはいけないのは、この被害の甚大さだけでなく、隊員たちにこの残虐行為に自らの意思で手を染めた自覚がなかったことだと思います。
そして、この隊員たちは残虐な異常者などではなく、私たちとなんら変わらない「普通の人びと」だったということ。
人間である以上、誰しもが例外なく同じことをしてしまう可能性があるのです。本当に残念なことですが。
これは完全に私見ですが、現代社会は当時よりも個々人が意図せず人を害する仕組みが整ってしまっているように感じます。
例えば、SNSは人間どうしリアルで対峙することはありません。相手の発信内容を都合の良いように切り取り、脳内で「悪いやつ」にステレオタイプ化することは容易でしょう。
また、自分の考えに同調する人どうしで集まるので、偏狭な「正義」が生まれやすい環境にあります。そしてこの考えにそぐわない人がいた場合、「悪いやつ」として攻撃する。親指ひとつで。何人でも、何度でも。
人を攻撃するのに、本人とスマホとプロバイダーとSNSが分業しているとも言えます。
その結果、その人がどんなに傷ついたとしても、攻撃をした方にその自覚はありません。第101警察予備大隊の隊員と同じ「効率的で無感覚な執行者」そのものではないかと思ってしまうのです。
もちろん、最新の技術は私たちの生活に大きなメリットももたらしてくれています。しかし、どんな道具も使い方を誤れば凶器です。
私たちは謙虚に自分たち自身の危うさを理解した上で、社会と対峙しなければならないのではないでしょうか。
カール・マルクスはかつて言いました。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」
私は、悲劇も喜劇も観たくありません。
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