藤田晴央 著『詩人たちの森』
2022年8月20日、弘前市立郷土文学館において催された文学対談ですが、その折に頂いた藤田晴央先生の御著書『詩人たちの森』を、涼やかな朝を感じられるやうになったこの頃になって、やうやくのんびりと繙いてをります。
私が現代詩を読まないのは、露悪的かつ大仰な身振りでハッタリをかます文脈や、正義者面を以て告発を事とする態度が嫌で堪らなかったからですが、あれらにせよ、不協和のポーズを善しとして澄ましてゐる訳でなく、世代的な免責のもとにあった戦後詩人に需められたマスメディア時代ならではの産物だったのだらうとは理解できます。
戦後現代詩詩人が書いた膨大な作品から、果たして自分のやうな人間にも共感が得られる詩がみつかるかどうかは、結局信頼に足る現代詩の書き手、 その人物に直接接し得た詩人の人となりを頼りに、解釈と鑑賞の手解きを受けるのが一番でありましょう。さういふ意味で、このたびの対談前夜の懇親会において、戦前抒情詩への尽きせぬ親愛を明かされた藤田先生が紹介される詩篇とはいかなるものなのか、耳を傾けてみたいと思ったのでした。
その結果、本書の俎上に上せられてゐる14人のうち、三好達治・小山正孝・村次郎・宮澤賢治といった、私も親愛を抱く戦前にルーツを持つ詩人だけでなく、これまで読まずに過ごしてきた現代詩詩人達の幾つかの詩について、藤田先生の解説のおかげで鑑賞が可能になりましたし、気に入らぬ詩境に対しても、抒情の否定ではなく包含する立場から意見を聞くことの意義は大きく、気づきを重ねながら読み進めてゆくことができました。
まずは好きな詩人たちについて、例へば冒頭の三好達治です。
彼のどんな詩にも「そのことごとくが、着想の始まりにある種の実感が存在している」と述べられてゐますが、これは「抒情詩」の書き手ならでは、正に「藤田晴央の詩」について当てはまる言葉ではないでしょうか。そして室生犀星のポエジーに対する三好達治の解説。すなはち師である萩原朔太郎よりもむしろ親和性があるにも拘らず、その本質を凌駕することができなかったことを白状するやうな、
「かんじんなところを歌ふ。語法も理法も越えて歌ふ。読む人の詩感を真っ直ぐに引き伸ばすような、あのはたらき」・「この直なるもの」(12p)
といふ讃嘆は、「抒情」とは別に戦後に引きつがれた「詩人のオリジナリティ」に関する課題を、現代詩人ではない犀星が易々とクリアする人であったことを指して言ってゐるやうに思はれました。
(大岡信や谷川俊太郎が心酔した『測量船』の詩篇「Enfance finie(過ぎ去りし少年時代)」ですが、これが「三好の蒔いた種」かどうか(9p)については幾分の疑問も持ちました。先行する春山行夫や北村初雄の影響が顕著であるし、別の所で大岡信が語ってゐるやうに、当時流行してゐた菱山修三ほか今は等閑視されてゐる詩人の開発に係るものを、その知性によって嗅ぎとり、より増幅した影響を後代に振るったマイスターのやうな存在、といふのが三好達治に対する私の印象です。本書に抄出されてゐる詩篇「湖水」は、妙に田中克己の詩を髣髴させます。また口語を捨てて、師と軌を一にするやうに、結局文語へと向かったその後の「感性的秩序の問題」については、ここでは触れられてはゐません。)
さて、この「詩人のオリジナリティ」についてですが、他に評する者が少ないマイナーポエット村次郎の詩について、かねがね私がモヤモヤ思ってゐた事情について言及されてゐます。
「感情を表す言葉」はなく「言葉の配置によって詩情が表出され」「単なる抒情詩を越えて存在論的な悲しみを湛えている」(256-257p)
『四季』の衛星雑誌と呼ばれた詩誌『山の樹』に拠ってゐた村次郎を、「立原道造や「四季」の詩人たちのエピゴーネンとみ」る向きに対しては、
「昭和十年代半ばに詩を書いたものは、大なり小なり、それらの詩人たちと近い言葉の位相で書い」てをり、「近いところにあった詩人の相違点にこそ芸術の味わいがある」(262p)
と擁護もしてをられます。これは初期の作品「夏」において曖昧な「ほとりに」といふ一句を捕まへ「時間のほとり」、つまり「昼と夜のあはひ」であると喝破して見せた小山正孝の一章においても同様に、「近いところにいて似ているようにみえつつ別物という特異性」(277p)と説かれてゐますが、村次郎についてはその特異が甚だしく、
「時に決意であり、失意であり、叫びであり、断念であったりする。そのために削ぎ落された言葉が重く突き刺さる」「思念的で硬質な観念をはらんでいる。」(263p)
と評されてゐて、さすがに「晦渋」とまでは書いてゐませんが、「詩は行分け」であり「一行一行が独立していなければならない」とする詩人の信条を、藤田先生は、
「村次郎は、行をどこで変えるか、言葉をどのように配置するかということに心を砕いた詩人であっ た。そしてそれが、単に言葉の並びの問題ではなく、精神の風景を表出するものでなければならないということを、信念として書き続けた詩人であった。彼にとっては、修辞的な技法の数々を駆使する〈現代詩〉や観念的なメッセージを比喩によって伝えようとした〈戦後詩〉は自分の詩作にとっては、否定的にとらえざるをえない世界だった。彼は、一見単純な言葉でよいから、みずからの内部から発せられたそれをどのように配置するか、どこに息づかいの切れがあるか、そしてそこで行分けすることによって、行と行が照応してどのような発光をするのか、それが問題だったのだ。そのような詩人の詩が、平易な言葉によって構成されているのに、全体としては何かしら張り詰めた印象を与えるのは当然のことだろう。そして、村次郎という詩人の魅力もその点にかかわっているのである。」264p
すなはち「聯詩」に赴いた佐藤一英や一戸謙三同様、〈現代詩〉〈戦後詩〉とは一線を画した、遠心的な詩作を彼が心がけてゐたことが簡潔にまとめられてゐるやうに思はれました。
さて、現代詩詩人に対する解説はどうでしょう。
こちらは池井昌樹、川崎洋、茨木のり子、石垣りんについて佳詩を紹介して頂き、私なりに楽しんだのですが(【※1】川崎洋「にょうぼうがいった」は抄出された全詩篇中いちばん愉しく読みました。下に写します。)、詩論・詩人論として心に残ったのは、抒情とリアリズムとの関係を、やはり詩の書き手ならではの立場から説いた、辻征夫についての一章でした。
辻征夫は、荒川洋治が唱へた「詩人は現実に生きてゐて一番切実すぎる問題は書かず二番目の主題を書き続けるものだ」といふ意見に対し、
「第二番目の問題を書く余裕はなく、第一番目の問題で胸がいっぱいで、しかしそれらの具体的な事柄がそのまま作品になるというわけではない」(84p)
と書いてをり、それを受けて藤田先生も、
「確かに多くの詩人は一番目の切実な問題を避けているかもしれない。余りに現実的で「詩語」にはなかなかなりづらい。けれど、それと無縁なところで書いているのではない、と辻は言っている。日常の人間関係とか、あるいは体内で抱えているとかの一番目の切実な悩みが〈土壌〉となって、詩が噴出しているというのが辻の考え方であろう。となると意匠は二番目だったり三番目だったりするわけである。そこから生まれる詩が、滑稽と悲哀」にみえるのだと言ひます。(84p)
さらに「一見平易に見える作品にも、たっぷりと推敲を重ねている」その詩の特徴として、
「それが仮に倦怠、退屈の類のようなものであっても、重苦しく渋滞しないように言葉を仕組むこと。 平明を身上とする言葉だけを選んで、情感をできるだけ軽やかに見えるように詩を仕立てること。表むき見せている分かりやすそうな姿態よりも、 そんなふうにかなり手のこんだ技法を隠している。」(85p)
と菅野昭正の言葉を引いてをります。(本書の巻末解説で清水哲男氏が著者のことを「あたたかい読み手」と書いてゐるのですが、それは対象のみならず、先行する詩人評へのリスペクトについても随所に表れてゐるのがこの本の特色かと思ひます)。
これ実に日常事件に右往左往する小人物を自覚する己の心情を隠し、沈ませ、鎮まったその上澄みだけを掬って詩に書いてゐる、昔ながらの抒情詩人には当たり前の心得なのですが、辻征夫が、
「詩は意味よりもまず調べではじまり、意味としての内容はときに作者自身をも驚かすことがある。だが調べは、《私》の総体、一人の人間の全部から出ているかぎり作者を裏切ることはない。この調べが聞こえなくなったとき、私たちは詩を書くことを止めて、消えて行くのである。」(86p)
と、さう詩と詩人との関係、詩人が詩を規定してゐる訳ではないといふ奥義を語るとき、「調べ」といふものは遠心的な詩作に限ったものでなく、求心的な詩作においてもやはりさうなのだ、といふことを語ってゐる訳で【※2】、その消息を藤田先生は、
「辻の作品には「なぜだかぼくにもわからないけれど」みたいなことがたくさんとりあげられている。 確かに、人が心の中に詩を感ずるのはそうしたこ とだろう。そして、その「わからないこと」を表現しようと悪戦苦闘するわけだが、辻はさらりと「なぜだかぼくにもわからないけれど」と言ってしまう。それは、そう言ってしまっても、作品の中に深く感じさせるものを仕込んだという一種の自信のようなものがあるから作品として手離せるのだ。」 (91p)
と、はぐらかしつつ、
「ひとつひとつの音符の音ははっきりしているのに、それらが連なったとき、不思議な世界を表出している音楽のようなものだ。詩というものの醍醐味がここにある。」(93p)
と共に嘯いてゐる。リリシズムに殉ずるといふのは、そんな「一種の自信」にもみえる含羞のことだらうと、私もまた思ふ訳であります。
(にしても、辻征夫の詩「ちるはなびら」に「妙に不器用な描画から詩のよう なものがたちのぼってくる」のが感じられる『ガロ』の作家(81p)とはいったい誰の事でしょうね。)【※3】
藤田晴央 『詩人たちの森 ポエジーの輝き』
2012年 北方新社刊行 341p ISBN:9784892971679 装画:野原 萌
目次
三好達治――抒情の源流を訪ねて
清水哲男――ユーモアと悲哀の抽象化
清水 昶――暗喩の抒情、やさしき魂の歌
谷川俊太郎――〈沈黙〉から〈人生〉の詩人へ
辻 征夫――リアリズムとリリシズム
川崎 洋――はくちょうと横須賀
池井昌樹――深くやわらかいもの
寺山修司――越境する魂
Ⅰ俳句・なつかしい微笑
Ⅱ短歌・外光へのあこがれ
Ⅲ詩・モダニズムと立原のエッセンス
吉原幸子――わがオンディーヌ
茨木のり子――感受性のありか
石垣りん――人生を支えるポエジー
村次郎――鴎のリリシズム
小山正孝――マイナー・ポエットの光
宮沢賢治――意識の流れの陰影
Ⅰ・「銀河鉄道の夜」をめぐって
Ⅱ・「春と修羅」をめぐって
Ⅲ・「青森挽歌」をめぐって
Ⅳ・賢治と大震災
解説 あたたかく読む 清水哲男
あとがき・「初出」一覧
【※1】 「にょうぼうがいった」 川崎洋
あさ
にょうぼうが ねどこで
うわごとにしては はっきり
きちがい
といった
それだけ
ひとこと
めざめる すんぜん
だから こそ
まっすぐ
あ おれのことだ
とわかった
にょうぼうは
きがふれてはいない
※ 抄出された詩篇中の傑作と思ひました。(私は毎日面前で云はれてゐますね。)
【※2】 遠心的と求心的
言葉のイメージとイメージをぶつけ合ひ、放つ火花を楽しむ詩作を「遠心的」と呼んでゐます。それを他人事として見つめるのではなく自分ごととして実存的に見つめる詩作を、私は「求心的」と呼んでゐます。
ユングの用いた心理学用語で詩を分類する際の「幻想的」と「心理的」に当たります。
「解釈」は、詩人のハッタリを避けつつどこまで真意に迫ることができるかにかかってゐます。
しかし「鑑賞」と言ふことになれば、ハッタリを駆使したポーズもその対象になり得ます。
遠心的な詩は中身が全てハッタリ(ボケ)でタイトルが辛うじて突っ込み、或ひはタイトルさへポーズだったりしますが、
ここに遠心的な表現を身上とする現代詩を語る難しさがあるやうに、愚直の自分は感じてゐます。
【※3】 「ちるはなびら」 辻征夫
とおくに
かすむやまやま
たなびいたまま
うごかないしろいくも
まんまくのすそはゆるやかに
ゆれているがかぜがあるわけではないだろう
したしいともも
ごかちゅうのめんめんも
みなそろっているがしわぶきひとつ
きこえない
ひとひら
ふたひら
ときにちるはなびらを
みているのはおそらく
わたくしひとりだけだろう
ちちうえははうえに
あんずることはないといいながら
ごじしんはせっぷくの
かくごをとうにかためている
くにもとからはるかにとおく
えどのはるの
ちるはなびらをみているだけなのに
いくつものさびしいここころの
うごきがわかる
まもなく
わたくしはかたなをぬく
ねがはくは
わたくしとたいじする
かのさむらいも
しずかなおんこころでありますように