『藤田文江全集』
藤田文江といふ、戦前の短い期間に鹿児島で活躍した詩人がをります。
(ふじた ふみえ、1908(明治41年)9月29日 - 1933 (昭和8年)4月24日)
このたびその詩人の全集本(全一巻)が刊行されました。
『藤田文江全集』 谷口哲郎編 2024年 書肆子午線刊 448p。
以前から予告されてゐたものですが、文献調査をふくめ四半世紀の時を要したといひます。満を持しての公刊はさきの『左川ちか全集』(島田龍編2022書肆侃侃房414p)、『山中富美子詩集抄』(小野夕馥編2009森開社203p)と並ぶ戦前のモダニズム詩、それも女性詩人の顕彰三弾目の快挙です。
と同時に、本書を手にされた方には編者である谷口氏による解説文に圧倒された方も多かったのではないでしょうか。
私自身、詩集『夜の聲』(1933鹿兒島詩話會)は復刻版を読んでゐたにも拘らず、このたびの解説における畳み掛けるやうな分析結果は、彼女の詩同様に難解でなかなか理解が至りませんでした。
この全集は、全体ページの1/3を費やされて書かれたこの文章がなければ不備でありましょう。一方でこの「解説」が一般の全集に付される解説とは趣を異にして対象に取り組みすぎてゐるため、本書の編集を思ひ立つきっかけとなったといふ一冊の評伝本、故・村永美和子氏が1996年に著した『詩人藤田文江 : 支え合った同時代の詩人たち』(本多企画377p)(※註)を読んでゐないと、読者を難解な詩で煙に巻くこの詩人を全人的に把握することは難しいのではないかとも感じました。
ですます調で書かれてはゐるものの、それほど今回の「解説」は当時の歴史的背景に踏み込んだ考察と断言とに満ちてをり、詩人自身の読書歴のみならず戦後現代詩の批評軸を前提に論旨が展開されてゐるので、事前に評伝本に接してゐないと一般の読者(詩の愛好者)は「虚構性の臨界」「表象=代行の透明性(奇妙な明るさ、一種の華やぎ)」等の語句が飛び交ふ文章に幻惑され、肝心の詩篇を自由に玩味することができるのか心配にもなってしまひます。
(執筆中に伴走者はあったでしょうか。私は読んでもらふことが大切だとやうやくこの頃になって気づき(笑)仮名遣ひこそ改めませんが家人(自称文学少女💦)に読んでもらひ、行文の疏通に腐心いたしをります。)
これは藤田文江が生きた同時代の理解者やライバルが、編者の谷口氏を心からは満足させることができず、むしろ戦後出た『日本現代詩大系』(1951河出書房)アンソロジーに彼女を参入した選者中野重治を最も相応しい評価者とし、選詩に当たった彼の「視覚(視野)」と、彼が見損なった「死角」とに照明を当て、藤田詩を深掘りせんとする執筆姿勢に表れてゐるやうに思ひます。
『日本現代詩大系』第10巻に居並ぶ詩人の選詩内容を見る限り、いかなる基準で選ばれたのか、私にも「死角」とは別の意味で不明に思ふところがあります。つまり藤田文江の選詩6篇(「誘惑」・「或る手紙(C)」・「疾む」・「泣いてゐるこども」・「棧橋にて」・「棹さす」)について、それが果たして適切だったかどうか、選ばれたのがモダニズム詩の代表作であるとも政治的なメッセージを読みとっての事だったとも、私には思はれなかったといふことです。
具体的に言へば「疾む」に異存ありませんがあとは「?」。
勿論わが好みではありますが〝夜の空〟といふ語句に〝ダブルベッド〟とルビを振った「逝く夏」や、〝私は己の命をかけて眠る〟といふ詩句を収めた「信ずる」、最も抒情的な「無題」が外されてゐるのは残念です。
中野重治はアンソロジーの解説で、昭和戦前期の詩的収穫の「思わぬ収穫」を「(詩史上の)全体のコースからいえばやや不健康な、いわば瘤組織」とも総括してゐるやうですが、選詩作品と同時にアンソロジー全体の中での彼女の位置などをみると、「左川ちかよりも高く評価した」といふより「左川ちかを評価できなかった」とみる方に私は与します。
一方、谷口氏は中野重治の「視覚」を同じく中途半端とするものの、却ってその史観を深掘りしたところに立って、詩篇「五月の竹林にて」がアンソロジーに選ばれなかったことを中野重治の「死角」と断じます。
そして「美しい竹(せいねん)がにこにこ笑って/立ってゐる」「悪の華を吊すには/この竹林(くに)はあまりに明るすぎるのだ」といふ条りに、萩原朔太郎の有名な「竹とその哀傷」の詩群を脱構築する(あてこする)抗議の謂が隠されているとして、朔太郎と藤田文江の詩には国家総動員制下の男女の関係性が象徴的に、片や光に輝き片や影に沈んでみてとれるのだと力説します。かうした詩人の「錯乱の論理(といふか絶望の論理)」に着目した創見こそ、本書「解説」の読みどころであると言へるでしょう。
私が抱いた不満はその一方で、藤田文江が『夜の聲』序文のなかで唯一名前を挙げて感謝の念を述べている宮崎孝政、モダニズム詩人でもなかった彼を始め、詩人を見守った地方文壇の人達との関係について、あまり解説が深掘りされてゐないことでした。
宮崎孝政は昭和3年7月号より中央の詩誌だった『詩抻』の編集を担当してをり、同10月号の投稿欄に「針」を推薦掲載したのを始めとして昭和5年1月の座談会では「都会畑のでギャギャ騒ぐ女よりも、田舎畑にいい女流詩人がゐて黙って勉強してゐる」と「目下勉強中だが非常にがっちりしてゐる」女性詩人として藤田文江のことを誉め「昭和五年度新人推薦」を授けました。
同年に「休火山」「まひる」「河」と如何にも宮崎孝政が好みさうな作品を寄せてゐる彼女ですが、その繊細な知性が勝った詩心とは一転、おなじく繊細な知性を持ちながらも人品骨柄は壮士風だった彼とは、遠く離れて居たからこそ無償の庇護と無条件の敬愛とが成り立つ関係だったに相違ありません。この辺り、唯一ガッツリ組んだ言葉を手向けて去ってゆかねばならなかった永瀬清子との関係などとともに、谷口氏ならではの詩観で弄って欲しかったとも思ひました。
今回の全集は関係者も物故し尽した没後90年余の企画です。詩集未収録作品とともに、詩人の妹君への最終的な聞き書きとなったフィールドワークを収めてをり、村永美和子氏が評伝本を書くためにバラバラに引用した参考文献が、項目を立てて整理配列してあります。
前述左川ちかについては『全集』と同時に、多数の現代詩詩人・研究者による論集『左川ちか: モダニズム詩の明星』(2023河出書房新社)が刊行されました。谷口氏の独力営為で刊行にこぎつけた今回の『藤田文江全集』においては、斯様の企図を望むことは出来ませんでしたが、その代はり解説に付した「注」にて現代評論子各位(絓秀実・水田宗子・大岡信・瀬尾育生・坪井秀人ら)の考察文章が自説援護の形で多数援用されてゐます。また左川ちかでは『左川ちか論集成』(2023藤田印刷エクセレントブックス)といふ同時代詩人達の追悼録・証言集も別途刊行されたのですが、これも『藤田文江全集』の本冊中では「書簡集」の一環として、方等みゆき、岡本彌太、そして先ほど挙げた永瀬清子の回想文が再録され、他は「藤田文江関連一次・二次資料」といふ形で最終的な捜索結果がリストアップされてゐます。
けだし谷口氏の編集方針としては、さきに詩人を偲ぶ材料を集めた一冊がすでにある以上、伝記的事項に十全を期すより、中野重治が嘆じた「正面からの抵抗がないまま陰気に押しつぶされて行くという」戦前の詩人たち全員を見舞った時代の悲劇に寄り添ふことで、早世した彼女の難解な詩からも何らかその魁となる地震の揺れを見出すことができるのではないか、そこから新たな詩人像の可能性が広まるのではないか、といふことになりましょう。
も一度言ひますが没後90年余り経って新事実の発見も難しい現在、マイナーポエットの全集を謳った今回の公刊は、論議を触発させるべく試論が付け加へられたことを含め、詩人に寄せる思ひをモチベーションに据ゑて邁進された谷口氏個人の独力営為の成果であり、史観は異なるものの詩人に預言者としての性格を付与しようとする顕彰態度は、我が先師である田中克己に対する姿勢と同じものがあるやうにも感じてゐます。
立ち戻りますが、一介の地方詩人だった彼女に郷土の封建性に対する強烈な不満をみることは出来ても、「戦略的に銃後を脱臼させ 316p」「戦争の地震計としての詩」を書いた夜明け前の反体制詩人の役割まで担はせた「解説」の、妥当性については正直私にも分かりかねた所です。
読後拭へなかった不安のため、村永氏の評伝本を古書サイトでみつけて入手し、そこにしか書かれてゐない印象の数々をつないでゆくことで、詩人のアウトラインが穏やかに顕れて来たことに初めて安堵したのです。
不安とは、詩人の師でもあった小野整が「文江君の詩を観念的にした原因」として挙げた「思想的な悩みと生活的な苦しみ」のうち、谷口氏の解説が思想的な悩みに分析を集中させたことにより起きたのだと思ひます。小野整以外にも詩友として最も懇篤だった間野捷魯が、
「藤田さんは女性に稀な線の太さと、厳しい情熱とをその芸術の上に具現していた。それは時に悪魔的なニヒルの哄笑をさえ含んでいるかのようであった。」
と記しながらも、表現の上で背伸びせぬ彼女こそが「ほんとの藤田さんの姿であるような気がする」と書いてゐるのを見て確信したことでもありました。
詩人の顕彰はもちろんですが、志半ばで斃れた彼女の追悼のために必要なことはなんだらうと感じたことでした。
編者より頂いた手紙に「後半の解説は皆様と議論するための叩き台」とありましたが、試論として斯界に一石を投じるに当たっては論文として学術誌や紀要に預けるのも一法だったかもしれません。
しかしこれは対象自体に原因があり、起こるべくして起きたことでもありました。何故なら彼女の詩は、作品の解釈を読者に委ねるモダニズム詩ならではの曖昧性と韜晦性とを本質としてゐるからです。
そして作者自身が予見無き一夜の発症(急性膵臓炎)で急逝したため、本人の解説や回想録がないといふ点、それも戦後視点からのものが存在しないといふ点で、同世代に生きた夭折女性詩人、やはりモダニズム詩を書いてゐた左川ちか(1911〜1936)や、山中富美子(1912〜1936)、伊藤昌子(生没年不明)らと事情を同じくしてゐます。
特に同郷の先輩伊藤整への恋慕体験を持つ左川ちかとは、本人急逝による破談で別人と再婚した新屋敷幸繁からの真情が封印されたまま解かれることなく、伝記探求に不都合が立ちはだかったといふ点で、似通った不遇を覚えずにゐられません。
さらに不幸の性質を世俗的に詰めるなら、失恋の痛手を跳ね返す努力を詩に注いだ左川ちかとは異なり、むしろ反対に優れた容姿と財産ゆゑ近づく男性を楽々と籠絡できた藤田文江には、却ってつまらぬ恋愛や結婚話がその後の彼女の才能の伸びしろに、或ひは悪く作用したかもしれぬとの邪推を感じさせます。
事程左様に藤田文江といふ詩人は戦後永らくの間、身近な関係者と古書店と詩集マニアとの間で特級呪物扱ひされる稀覯詩集をめぐって、才能と美貌ゆゑのスキャンダルとが伝説として噂され続けて来た「知る人ぞ知る幻の薄倖詩人」でした。国会図書館にも所蔵がなく、永らく内容を窺ふことすら容易にできなかった唯一の著書『夜の聲』初版本ですが、完成を目前にして彼女自身は現物を見ること叶はず、何と詩人の通夜の枕辺に漆黒の装ひ(装釘)を以て到着したといひます。
彼女は昭和8年に世を去りましたが、美貌も財産もそして懸賞の公募に一等入選する愛国詩を小手先で作ってしまへる技術もあった彼女が、もし不慮の急逝などしなかったらどうなってゐたでしょうか。
好意を持たれてゐた新屋敷幸繁と結婚もし、父親の束縛から逃れ、その後の大東亜戦争では殆どのモダニズム詩人や女性詩人が辿ったやうに、国を挙げての総力戦に協力することも当然なら、上昇志向の強い彼女なれば深尾須磨子以上に力強いアッツ島守備隊激励の軍歌を書いて国民の涙を絞ることも可能だったのではないか。それは中野重治がやはりアンソロジーの解説の中でいみじくも記したやうに「いつから詩を書きはじめたかという全く外部的な条件からも強く影響され」生を享けた世代によって宿命づけられたものではなかったか。
――と、斯様な言説を私が弄したら、詩人に対する不当な仮定、ありえぬ侮辱に当たるでしょうか。谷口氏に訊ねてみたい気が致します。
以上がこのたびの『藤田文江全集』に対する感想かたがたの紹介です。
以下、この機に彼女の詩を読み直してみた拙い感想まで記してみます。
昭和2年より遺されてゐる初期の習作からすでに口語散文詩の洗礼済みを感じさせる藤田文江の作品ですが、そののちモダニズムと認定される詩にあっても、昨今人気が定着した左川ちかにみられるやうな乾いた硬質感は感じられず、蟠まる激しい情念は韜晦されきれず熱いまま放り出されてゐる、といった様相に瞠目します。
月並みでも借り物でもない譬喩のオリジナリティは、モダニズムといふ括りを超え、詩人としての天性のセンスを示すものばかりです。少し挙げても
「私は己の命をかけて眠る 49p」
「Gの字の様なむづかしい顔 58p」
「あなたの頬にかげさすむなしき重量 68p」
「その陰影(かげ)を折って/水を動かさずに沈む 70p」
「低い声が/聳えてゐるのであつた 74p」
「雑巾の如き女 80」
「思久思久(しくしく)哭いてゐる 82p」
「老いて寒い桟橋(かれ)の顔に/言葉の様な時雨が降る 85p」
「山草(すげ) 87p」
「鵞鳥がぎくぎく鳴く 96p」
「氷の如く音を噛んで 98p」
「静かなレコードをまわす海原を 115p」
「乳色のオルガンの音色 169p」
「豪華なる押絵の如し 173p」
と枚挙に暇がありません。
そして際立つ個性としては、やはり独特に振られたルビ遣ひが挙げられましょう。
ペダンチックな訳語を宛ててゐるのではなく、その詩における+αのイメージを重層させ、ふくらませることを主眼に置いてゐて、ルビがないと物語(ドラマ)が成立しないやうになってゐます。
「夜の聲(おまへ)15p」
「黒い肩掛(おまへ)16p」
「死(おまへ)18p」
「夜の空(ダブルベッド)21p」
「小つぽけな己(げきじょう:激情)31p」
「美しい竹(せいねん)39p」
「竹林(くに)41p」
「影(あなた)67p」
詩篇「五月の竹林にて」の解説において、谷口氏がこれまで誰も成し得なかった創見を提出してみせたのは前述したとおりです。
また「病體」といふ詩についても谷口氏の考察は斬新です。
ラストに
「男と女のきづなを蹴ってひらけゆく鴨緑江!」
とあるのはどういう意味か、なぜ「鴨緑江」が見えてくるのか、といふ問ひに対し、
と答へます。
これは「ひらけゆく」といふ語感から、日露戦争における鴨緑江の戦ひ、その〝挺身のさま〟や、あるひは〝拓けゆく満州大地への可能性〟を「錯乱の論理(といふか絶望の論理)」によって表現しようとしてゐるのかもしれませんね。
他にも注目すべき特徴としては、たかとう匡子氏が『私の女性詩人ノート』(2014思潮社74-77p)のなかで指摘してゐた、女性の性欲「おんなせい」を、この時代によくも斯くまで表現し解放してゐることです。
「おんなせい」については「荒淫の果ての孤独祭」といふ最も官能的なタイトルの問題作が、よく引き合ひに出されるらしく、
村永氏はこれにつき「タイトルのもつ強さに引きずられやすい作品」と留保し、ラスト一行について本重瑞子氏が「歯の抜けた様な欠落感がただようのはどうしてであろうか。」と疑問視してゐることを記し、自らは「これがすらっと書けたという身の振りようを、もっと考慮してよい」と肯定してゐるのですが、私には欲望後の脱力感を質量の落差を以てあけすけに描いてゐるやうに思はれてあっぱれを感じます。
最後に解釈に謎を強いる個所についても記しておきましょう。
たとへば校正を経てゐる筈の詩集ですが、句読点を補ふ必要を感じさせる読みが所々にあるやうです。たとへば、
詩篇「物語の序曲」96p の
「夜現の中に」は「夜、現(うつつ)の中に」
「水素の様なかげをもたない」は「水素の様な、かげをもたない」
でないと意味が通りづらいのではないでしょうか。
不明な語句としては、
詩篇「ある手紙」32p の
「M、T、B、ゲルベゾルテ」のM、T、Bとは?
詩篇「水の上」62p の
「我何なく」は何と読むのか。「我、何なく」?それとも「我彼なく」?
「その血の上にぎして寒きかな」64p は、
「その血の上に擬して寒きかな」と読むのでしょうか。
詩篇「無題」156pの
「土喰三俊」は、鹿児島県の土喰(つちくれ)集落の三人の俊才といふことででしょうか?
そして詩集未収録の詩篇「神」の「きたい着物」とは? 171p
単純に「きたない着物」の誤植といふ可能性はあるのか??? などなど。
以上、掻い撫で読みの印象で恐縮ですが感想です。
これまた「叩き台」として諸賢からの御教示を俟ちたいと存じます。