2017年の作文
◇読書をとめてしまう本 終わらない思索の始まり
こんなことがある。読みたくて手にした本なのに、なかなか先に進まない。書かれていた言葉に心がひっかかって、思索が終わらなくなってしまうのだ。例えば、ドストエフスキー『白痴』第二編の5を読んだ時がそうだった。ずっとドストエフスキーを読んできて、私はこの箇所でぴたりと小説が読めなくなってしまった。ここには、主人公ムイシュキンがてんかんの発作に襲われる前後のことが書かれてある。何か私にとってとても重要なメッセージが書き込まれていると思ったのだ。そして考え続け、読書は止まってしまった。それから『白痴』読解の再開のために二年以上が必要だった。
今私は、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を手にしている。序の2にこうある。
《凡ては永久に過ぎ去る。誰もこれを疑う事は出来ないが、疑う振りをする事は出来る。いや何一つ過ぎ去るものはない積りでいる事が、取りも直さず僕等が生きている事だとも言える。積りでいるので本当はそうではない。歴史は、この積りから生れた。過ぎ去るものを、僕等は捕えて置こうと希った。そしてこの乱暴な希いが、そう巧く成功しない事は見易い理である。》
この一文を読んで、終わらない思索が始まった。始まってしまった。時間論、歴史観、哲学、宗教、それらを総動員してかからなくてはならない命題だと感じた。小林秀雄は、ドストエフスキイの評伝を書くために、なぜこんな序文を置いたのか? 困る。困るよ。先へ進まないよ。飛ばせるものなら飛ばして、先へ行きたい。しかし、ここを飛ばして読んでも、「積り」が頭をよぎって言葉が入って来ない。
車を運転しながら考えていた。「人間」を三つの言葉に還元して表現するとどうなるか? 思いついたのが、情報・判断・行動、である。目の前の信号機が赤から青に変わった(情報)ので、ぼくは左右に注意しながら安全だとわかると(判断)、アクセルを踏んだ(行動)。テーブルにおいしそうなラーメンがある(情報)、ぼくはそれが好き(判断)なので、割りばしを割って食う(行動)。このようにして、人間は「情報・判断・行動」を繰り返す。
問題は、如何なる情報に基づいて判断し、どのような行動を取るかだ。前から鬼が歩いてくる(情報)、怖いから(判断)、逃げる(行動)。ところがそれは鬼ではなく嫁であった。情報の真偽を確かめなければ、誤った判断で、おかしな行動をしてしまうだろう。
「情報批判」が必要なのだ。情報は知識と言い換えてもよい。2017年の地球は早くも10周自転した。私たちは今日が10日(火)であると考える。しかし、2017年という情報が間違っていたらどうする? 10日(火)という情報が間違っていたらどうする? 情報の真偽を確かめること。取捨選択すること。
次に「判断力批判」も必要だ。同じ情報が与えられても人によって判断が異なるのは、人によって「判断力」に違いがあるからだ。「スマップ解散」という情報に、残念と思う人、やっぱりと思う人、それがなにかと思う人、判断は同じではないのが普通のこと。「トランプ氏次期アメリカ大統領就任」という情報に対する判断も様々であろう。判断力の根っこになっているものは、その人が生きてきた時代背景、生活習慣、文化的土壌に負うところが大。これを一言で「倫理観」と言ってもよい。何が好きで嫌いで、正しくて間違っていて、良くて悪くて、それらを決める素材が人によって異なっている。しかし、この肝心の「倫理観」は自分では容易にコントロールできないのだ。自分がそれをそのように判断してしまうのは自動的だ。これは実にやっかいである。
そして「行動批判」。私たちの行動は、次の情報を作り出す。過去の行動の集積が、大きな情報になっている。それを私たちは「歴史」と呼ぶ。「歴史」という情報によって、国家が動く。「慰安婦問題で大使が一時帰国」という政治の動向が、次の歴史となり、さらにその歴史の上に立って、国は態度を変更するだろう。行動は反省の下におかれ、言語化され、新たな情報として教訓にまとめられる。そして行動は身体を前提とする。健康を基礎とする。その背後に欲望がある。
今年は「情報・判断・行動」の思索を続けよう。
◇ポエジイの行方
ポエトリースラムジャパン2017東京大会Bを観戦。友人がエントリーしたので応援に行ったのだ。私はこれまで詩人の朗読イベントに参加したことはあったが、複数の人間がマイクの前に立って自作の詩を発表し、それを観客に判定してもらい勝者を決める競技を観たのは今回が初めてだ。
感じたことを書いておく。ある者は芝居に、ある者は演説に、ある者は落語に、ある者は漫談に、またある者は物語に、ある者は歌詞に、それぞれ近寄っていく。果たしてそこに詩はあったのか? 私は詩の行方を探した。
プロテスタント神学者ルドルフ・オットーの著書『聖なるもの』になぞらえて「詩なるもの」というタイトルの本を書いてみたくなった。
人がマイクの前で何かを語り、「これは詩です」と言った場合、いったい誰がそれを否定できるか。詩はあまりにも守備範囲が広い。なんでも詩になってしまう。もしかしたら天気予報でさえ、詩になるかもしれない。これは明らかに口語自由詩の弱点ではないのか。
俳句、短歌、川柳と比較して考えてもよい。同じ言葉の表現なら形式が定まっている俳句や短歌の方が、多くの人に伝えやすい。実際、口語自由詩をやる詩人よりも俳人、歌人の方がはるかに多いだろう。習い事として、詩は不向きだ。学んだり教えたりすることができそうにない。
にもかかわらず競技には24人が登壇した。これはいかなる現象か。そして、パフォーマンスは繰り広げられ、良かった悪かったが判断された。声の出し方、言葉の選び方、強弱、話の展開、動き、スピード、真実味、発想の転換、リズム感、評価のポイントはいくつもある。
私たちは、それらの表現のいったいどこに詩を感じるのだろうか? ポエジイの行方を探したけれど私には見つからなかった。もしかしたら「詩なるもの」をつかむことは不可能なのではないか。だから、プレイヤーたちは、芝居に寄せて、演説に寄せて、笑い話に寄せて、詩を語るのではないか。詩は歌の中に隠れ、曲と共に流れ、風の中に消えてゆくものなのではないか。
◇へたな詩
先日、詩の勉強会に参加した。課題詩人は室生犀星。大好きな詩人のひとりだ。生い立ちから晩年までの生涯をたどりながら主要な作品をみなで読みあった。読み終えて感想を述べる人たちが少し戸惑っているように見えた。詩に慣れていないという人が特にそうだった。理由は、書いてあることがそのままだったからにちがいない。「詩」と聞いて、人は何か複雑なものを読み取らなければならないと思ってしまう。しかし室生犀星の詩にはそういうものがない。書いてある通り、それはそこにそうあって、それをそう感じたという記録のような言葉が並んでいる。なにか隠喩とか象徴とか、そういうひねりがどこかにあるのかなと詮索しても出てこない。
自分の生ひ立ち 室生犀星
僕はあるところに勤めてゐた
僕は百人の人人と
朝ごとの茶をのんだ
僕は色の白い少年であつた
みんなは頬の紅い僕を愛した
僕は冬も夏も働きつづめた
そのころ僕は本を読んだ
僕の忍耐は爆発した
僕は力をかんじた
僕は大きく哄笑した
僕は勤めさきを飛び出した
僕は父と母とをうらんだ
父も母ももう死んでゐた
僕はほんとの父と母とを呪うた
涙をかんじたけれど
もうどこにもその人らはゐなかつた
これが人生の一記録をただ羅列しただけの言葉だったら、詩にならない、と人は思うかもしれない。一行ずつを見れば確かにそう思われても仕方ない。しかし、これは詩人の苦悩の日々を削って、削って、省いて、省いて、言いたかったことのほとんどを捨てて、ようやくできた告白の残骸である。この残骸になお、万感が込められていると感じる時、じわりとまたじわりと詩情が立ち上って来る。三好達治は「数人の詩人について」という文章の中で、室生犀星について次のように云っている。
《「室生のはあれは無智の一得……」と萩原さんはその詩をいつも推称しながら、どうかすると揶揄い気味にそういわれた。吃々として舌の廻りかねた稚醇な言葉づかいの巧みに(──それも一種の巧みには違いない)使いこなされて行届いたふしのあるのを、そういわれたのであろう。》(『詩を読む人のために』岩波文庫257頁より)
要するにヘタウマと思われていた室生犀星。その詩にみな一目置いていたということだ。それにしても興味深いことは、ドストエフスキイの文学を挟んで友情を育んだ萩原朔太郎と室生犀星というふたりの詩人が、100年前に互いの詩を褒め合いながらそれぞれ詩集を世に送り出したという事実。『月に吠える』(1917年)を読み、『愛の詩集』(1918年)を読む絶好の機会が訪れている。
◇詩のリレー
御徒町の若者がまど・みちおのきりんを朗読しているとき
目黒の娘はブルーハーツの青空を歌っている
新宿の少女が三好達治の雪を読むとき
神田の少年は二十億光年の孤独を暗唱する
この東京ではいつもどこかで詩が読まれている
ぼくらは詩をリレーするのだ
詩集から詩集へと
そうしてつまり連続で言葉を巡る
眠る前のひととき 耳をすますと
どこか遠くで青白いふしあわせの犬が月に吠えている
それは百年前にあなたが書いた詩を
誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ
(元ネタは、谷川俊太郎「朝のリレー」です。勝手にパロディ詩を作ってしまいました。すみません。)
◇穴・ライズ
分析は冷たく
総合は温かい
奥歯に詰めてあった銀が外れた
30年もの間
ぼくの奥歯の一部だった銀なのだが
ぽっかり穴が空いてしまった
食事のたびにそこにものがつまる
お茶でクチュクチュしたり
歯ブラシをあてたりすれば
たいがいのものはすぐとれる
きょうはお昼に外でお弁当を食べた
いつものように
クチュクチュ
あれれ?
クチュクチュ
あら?
こんどのやつは手ごわい
ぼくは爪楊枝をつまんで
穴の奥に差し込んでみた
爪楊枝はどんどん中にすべり込んでゆく
深い
思いの外
深いのだ
ずん
ずんずん
とうとう爪楊枝は穴の中にのみこまれてしまった
穴を鏡に映してみようとするが
よく見えない
もう一本爪楊枝を差し込んでみた
またのみこまれてしまった
気味が悪い
この穴はただの穴ではない
もちろん神経は抜いてあったので
痛みはない
ただひたすら不気味なだけだ
息を吸って
しーしーやってみた
穴の奥からひんやりとした空気が流れて出てくる
しーしー
しー
耳を澄ますと
微かに
雨音が聞こえる
穴の向こうは雨らしい
真夜中
その穴から
宇宙人たちがはい出てきて
地球を侵略してしまうかも知れない
だから
明日ぼくは歯医者へゆく
◇変わらない変化について
季節はめぐる
季節はめぐる
されど時は流れない
時代はまわる
時代はまわる
だけど時間は動かない
万物は流転すると古代ギリシャの学者は云った
冬がおわる
冬がおわる
されど時は過ぎ去らない
春がくる
春がくる
だけど時間は止まっている
諸行は無常と古代インドの覚者は云った
存在
時間
存在
時間
ほんとうは
存在とは時間のことだろ
時間とは存在のことだろ
なあベルグソン!
苦しい時ははやく変われと願い
楽しい時はずっとこのままと望む
存在は時間 時間は存在
だから無はないわけです
◇過去形
詩を書いた
世界から何かを感じた
言葉にしてみた
口に出した瞬間から言葉の意味は過去に置き去りにされた
すべては過去のものだった
だからぼくの詩は過去形で書かれた
現象学から学んだ
ハイデガーからも学んだ
ジャン=ポール・サルトルから影響を受けた
ポール・ヴァレリーからも影響を受けた
ポール牧の影響はほとんどなかった
ポール・マッカートニーは THE BEATLES にいた
現在は言葉を過去に残して先へ急いだ
タイムマシーンに乗りたかった
時間を止めたかった
止めても無駄だった
君は見慣れない服を来て出て行った
愛していたって言わなかった
呼吸をした
声を出した
風呂場に歌が響き渡った
お湯につかって暴れた
思い出した
ぼくはこどもだった
やさしい声が聴こえた
詩を書いた
◇月とハイエース
水気を含んだ空気にぼかされた
夜空の下を
白いハイエースが走ってゆく
夢と希望を運んでいるのだ
ドライバーは勇気を奮い起こしアクセルを踏む
気の弱い彼は
無慈悲を乗り越えて
不条理を乗り越えて
無気力を乗り越えて
怠慢を乗り越えて
思い上がりを乗り越えて
無責任を乗り越えて
不誠実を乗り越えて
わがままを乗り越えて
乗り越えて 乗り越えて 乗り越えて
臆病を追い払うようにアクセルを踏む
ある時彼は車を降りて空を見上げた
満開の桜の木の上にスポットライトのような月があった
もうすぐ夜が明ける
地球は自転し
大地は太陽のある方に動いていく
止まっているもの
動いていないもの
実はすべて動いているのだ
止まってはいない
ハイエースは走り出す
おぼろ月の下を
桜並木の道を
◇浄土の門の外で
あなたは桜吹雪が教えてくれた風のとおる小道を駆けてゆく
あなたは 駆けてゆく
あなたの黒いドレスがなびいている
まるで来ないで来ないでと言っているかのように
そうしてあなたは浄土の門の中へ
浄土の門の奥へと消えてしまう
いいえ
いいえ ぼくはあなたを追いかけていたわけではありません
なのに
あなたは
あなたは逃げるように浄土の門をくぐり抜け
姿を消してしまった
桜吹雪は今もこうして風のとおる小道を教えてくれる
きっと
きっと この道の先にはあなたがいる
でもぼくはそっちへは往かない
往かないと決めています
◇「羅須地人協会」という名前を賢治さんはどうやって思いついたのか
いろいろ調べて、いちばん詳しく説明が載っているのが、原子朗著『宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)だったので、引用しながら考察を進めたい。
賢治さんは花巻農学校を退職し、花巻川口町下根子にて独居生活を始める。1926年(大正15年)の4月1日のことである。やがて、教え子たちと共に農業指導と文化活動を実践する団体「羅須地人協会」を8月23日(旧暦7月16日)に創立する。ちなみに7月16日は日蓮が『立正安国論』を北条時頼に提出した日である。
以下『宮澤賢治語彙辞典』754~755頁より引用する。
《メモ[創]にも「羅須園芸協会」(羅須は消されているが)とある、この「羅須」という語をめぐって、その出自、命名の根拠に諸説ある。賢治自身は生前、羅須の語の意義は何もないと菊池信一に語っている(境忠一『評伝宮澤賢治』、1975)》
賢治さんが命名について根拠を何も語っていないというのは、研究者や愛好家にとっては真に残念なことだが、同時に自由な推理が許されていると捉えることもできる。謎解きを読者に託すのも作家の仕事の一つである。宮澤賢治という人は、個人の事典や辞書が出版されるほど多くの謎を残してくれた。
私は初めて「羅須地人協会」の名を耳にした時、すぐに「天地人」という言葉を連想した。天を「羅須」と言い換えたのではないか、この推測については後で述べるとして、諸説がどう記載されているか引用を続けよう。
《佐藤隆房『宮沢賢治』によると、英語のLath(壁の漆喰の支えにする木摺とか木舞)で、つまり農民の支柱の意とする》
ちがうな。
《恩田逸夫(「羅須の語義推定」、「羅須という語の由来」、「賢治とラスキン」)によれば、修羅の逆、つまり羅須とは、まことの境地を指す。あるいはラスキン(J.Ruskin 1819-1900、社会思想家)のラスを採ったともする》
おしい。でもラスキンはないな。
《医師でアイヌ語による地名研究家だった木村圭一(「羅須その他」)によれば、ラス(Rasu)とはアイヌ語の松(とど松)のことかと言う。詩[樺太鉄道]の「めぐるものは神経質の色丹松(ラーチ)」のラーチは、まさにラスのことであるとも言う》
「松」、これはあり得る。「松竹梅」という言葉と「天地人」という言葉は共に序列の意味をあらわす言葉だから。だがひねり過ぎか?
《堀尾青史(『年譜宮沢賢治伝』、1966)は、セメント網を結合するラス網(メタルラス)のことかと言う》
「メタルラス」という言葉、カッコいい。
《青江舜二郎(『宮沢賢治─修羅に生きる』、1974)もアイヌ語の松と言い、さらにロシア(Russia)のラスでもある、と言う》
なんでロシア? トルストイの影響だとしても……。
《力丸光雄はRasはラテン語の「sal(塩)の人」という意だと言う》
塩の人!
《また中條惟信は、花巻は桜の花から由来した名であり、サクラを逆にラクサと造語し、そこからラサ→ラスになったとする》
無理がありますよ。
《松浦一は英語rustic(田舎者)から採ったとする》
ほう。
《小野隆祥(「羅須地人協会命名考」)は賢治が修羅脱却、修羅感情克服を念じ、実践奉仕の道に突入するのに修羅を逆転否定する賭として羅須と自称したと言う》
ヒントあり!
《金子民雄(「羅須地人協会の命名私考」)はラスとはearthのことだと言う》
シンプルでいいな。でもアースだよ。地球地人協会?
《吉見正信(「農民指導とその実践」)は「羅取地人協会」(農民人材よ集まれ会)、あるいは「四維地人を須つ」(天下の優れた農民人材を須つ会)の意だとする》
離れていってる気がする。
《佐藤成(『教諭宮沢賢治』、1982)によれば、農民の目をさまし、白州に座るおもいで農民にルネッサンスを迫る「しらす地人協会」の意とする。またはクリノメーターを羅針と考えた「羅針地人協会」とも言う。さらには農民祭日の日の案内状に「われわれに必須な化学の骨組み」とあるところから「必須地人協会」と考える。ほかに、曼荼羅の羅、仏壇の須弥壇の須から羅須を採ったとも言う。さらにエスペラント語のRaso(人種、民族の意)から来たとも言う》
ええ? ちょっとちょっと、どれなの?
《興味ある新説を追加しておくと、賢治には万物を包摂する「天地人協会」の意図があった。そしてこの天(そら)を逆に読んでラソ→ラスとした、というものもある》
そうそう。これこれ。同じこと考える人はいる。でもラソをラスにするというのはどうも……。この新説が誰の者かは知らないが、ここで私見を加えさせてもらいたい。
賢治さんの念頭には十界があったと思う。仏法の十界論は、18歳の時に『漢和対照 妙法蓮華経』と出会ってから賢治さんにとっては馴染みの深い教理の一つである。順番に地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界となる。賢治さんは、じぶんを修羅と規定し、心象スケッチを記し続けた。仏法では、地獄界から天界までの六つを一括りにして「六道」と呼び、衆生は六道輪廻を繰り返していると観る。この六道輪廻という考え方からすれば、天界は決して人間の理想の世界ではない。天界は長くとどまることのできない場所であり、第六天の魔王のすみかでさえある。ここで、『宮澤賢治語彙辞典』351頁の【修羅】の項を参照しよう。
《梵語アスラ(asura ペルシアの古語とも語源が同じ)の音写である阿修羅の略。もとは力強い善神の名であったが、やがて神にそむく者(悪神、非神)と解釈されるようになった(古代印度のヒンズー教の悪神シヴァ〈siva〉が仏教や日本の神道で福神とされているのと逆)。衆生が業により、おもむくとされる六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の一》
アスラ(修羅)が天から堕ちた存在であること。人界を真ん中にして考えると、上に天があり下に修羅が来ること。修羅←人→天。これらを考慮にいれて、賢治さんが、アスラのスラ(修羅)をひっくり返してラス(羅須)にし、天の読み替えに選んだのではないかと推測する。
賢治さんのことだから協会の名前を決める時にみんなの意見を募ったに違いない。そしてある教え子から、「孟子いわく、天の時は地の利に如かず地の利は人の和に如かず。天地人協会でどうでしょうか?」と提案があり、「それではひねりがないから天をラスと読み替えたらどうか」と言って、羅須地人協会になった。私の推理である。
『宮澤賢治語彙辞典』にはまだ続きがある。
《ロジャー・パルバース(アメリカ生まれでオーストラリアに帰化、ポーランド語にもくわしい賢治研究家)から著者が直接教示されたLas説(ポーランド語で森)は明快で説得力がある。ちなみに賢治も学んだエスペラント語の始祖、ザメンホフはポーランド人、賢治にはポーランド語に拠ると思われる[ポラーノの広場]もあるだけに、後述のヴァールマ説とともに有力な説の一ともなろう》
これだな。
《また、賢治生誕百年記念「宮沢賢治国際研究大会」(1996、花巻)で杉尾玄有の「羅須は梵語Las(さきのポーランド語の森と同じスペルだが、輝く、反響する、遊戯する、踊る)にもとづく」という興味ぶかい研究発表もあった。そしてそのあとのシンポジウム「タゴールと宮沢賢治」でのインドのヴァールマ博士の報告中には「ラスはオランダ語でも森」と、これまた前記パルバース説とも符合する見解もあった(杉尾説とともに同国際大会記録集、参照)》
いいね。森、反響、そして踊る。
心象スケッチ『春と修羅』発刊記念日4月20日にこれを記す。
◇ジャブ
ガマガエルのボクサー
左拳で
ジャブを打つ
黒猫が
腕に噛み付く
振り払っても
振り払っても
黒猫に噛まれ
痛い
ジャブ
ジャブ
そうだ
その調子
まわれ
まわれ
前に
前に
ジャブ
ジャブ
ジャブを打て
打て
腕
いてえ
◇夏の朝のそよ風
夏の朝のそよ風は
夏の朝のそよ風は
運んでくる
何を?
遥か彼方の草原の土の匂いを
夏の朝のそよ風は
運んでくる 何を?
ささやくように波がゆれる磯の香りを
夏の朝のそよ風は
夏の朝のそよ風は運んでくる 何を?
夏の朝を
夏の
夏の
夏の朝を
◇夏の雲
夏の雲は旅をする
旅する雲を見送ってる遊牧民の一人はあなたですか
夏の雲は旅をする
旅する雲を見上げている都会人の一人は君ですか
夏の雲は旅をする
旅する雲を見つめてる身体を離れた魂はどこへゆく
旅する雲は綿菓子で
旅する雲は怪獣で
旅する雲はスポーツカー
旅する雲はおいしいパン
旅する雲はお母さん
旅する雲は夏の雲
◇真夜中のサイクリング
人生の意味がわからなくなった夜に
少年は真夜中のサイクリング
銀河鉄道の汽車を追いかけて
走る走る
桜並木の坂の上の満月
少年だけの秘密のステーション
それでも人生の意味はつかめない
走れ走れ
だから
走れ
◇ひまわりの夏
ひらいた
ひらいた
ひまわりの花
はじめはちいさな葉っぱだった
やがて大きな葉っぱがたくさんできて
細かった茎も太くなった
ある日ひまわりのてっぺんに
ふっくらと蕾ができていた
その蕾がどんどんふくらんで
大切なひまわりの顔ができたんだ
ひまわりは黄色い顔をはずかしそうに
みどりの指でかくしていたけれど
ついに太陽の光を求めて
顔をあげたんだ
ひらいたよ
ひらいたよ
ひまわりの花
ずっと
ずっと
待っていたこの時を
ひらいたよ
ひらいたよ
ひまわりの花
うれしくて
うれしくて
一緒に手をあげたんだ
青い
青い
空に向かって
◇文が詩になるためには何が必要なのか
1.
たとえば朝の挨拶「おはようございます。きょうはいい天気ですね」という文を書く。これをじぶんの好みにしたがって行わけしてみる。
おはよう
ございます
きょうは
いい
天気
ですね
果たしてこれは詩なのだろうか?
こんな文がある。「ええ 五時がいいわ、五時ね、五時ってもうくらいわね、五時っていいお時間ね、まいりますいつものところね。」 誰かの会話を切り取っただけの文である。これに何か特別な意味をもたせるには前後の脈絡を想像する必要があるだろう。実はこの文には「受話器のそばで」というタイトルがついている。作者は室生犀星、『女ごのための最後の詩集』に収められている。もとの形に戻せば、
ええ 五時がいいわ、
五時ね、
五時ってもうくらいわね、
五時っていいお時間ね、
まいりますいつものところね。
ここで大きな疑問が生じる。口語自由詩にとって行わけの仕方はそれを詩と承認させるための条件なのか? これは視覚の芸術として限定した場合の議論になるのだが、書かれた文章が、小説や随筆ではなく、紛れもなく一遍の詩であると私たちが思うための条件がなんであるのかを一度徹底的に考えてみたいのだ。
俳句の場合を考えてみよう。〈ともかくもあなた任せのとしの暮〉小林一茶の句を次のように行わけしてみる。
ともかくも
あなた任せの
としの暮
さらに行をふやすと、
ともかくも
あなた
任せの
としの
暮
私たちは、一茶の作った文をどこで俳句と認識するのか。一行で書かれたもの、三行や五行で書かれたもの、そのような視覚的な違いを基準に判断しているのではなく、音数律5・7・5が何よりも俳句らしさを表現しており、耳でそれを聞き分けるのだ。短歌の場合についてはどうか。〈白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〉若山牧水の歌を行わけしてみる。
白鳥は
かなしからずや
空の青
海のあをにも
染まずただよふ
視覚的には、詠みやすくなった。しかし一行のままでも音数律を聞き分けることができれば、やはり問題なく私たちはこれを歌であると判断する。
俳句や短歌のような定型詩の場合、ひとまず形式に依存すれば、言葉を日用のものから解放し、鑑賞に堪えられるものにすることができるだろう。ところが問題はまだ残る。日用の言葉をすべて音数律で話す人間がいたらどうなるか、という思考実験を検証しなくてはならない。
2.
妻「あらお味噌なくなっちゃったどうしよう。これじゃ味噌汁つくれやしないわ」
夫「なら僕が買ってこようかコンビニで、ついでに煙草も買って来たいし」
妻「よろしくねそれに豆腐も買ってよね。ああそうだそうポン酢もないわ」
これらの5・7・5は短歌であろうか?
いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに、大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり、誰そ我にピストルにても撃てよかし伊藤のごとく死にて見せなむ、こそこその話がやがて高くなりピストル鳴りて人生終わる。
石川啄木の「我を愛する歌」から四首抜き書きし文脈があるかのように並べ替えてみた。啄木は短歌を三行にわけて表現したことで有名である。このように一行にすると、まるで散文のように見える。ところで石川啄木は詩集『あこがれ』を19歳の時に出版し詩人としてスタートした。伊藤整は次にように書いている。
《啄木は『あこがれ』の出版にあたって上田敏の序をもらったが、それは当然のことである。上田敏がその画期的な訳詩集『海潮音』を出版したのは、同じ明治三十八年であるが、『あこがれ』は五月、『海潮音』は十月である。しかし『海潮音』所収の訳詩は、その前年から『帝国文学』『明星』などに引きつづいて発表されていたもので、同時代の詩人たちに与えた影響は深甚なるものがあった。啄木が真似したところの蒲原有明、薄田泣菫の二詩人もまた、上田敏がそのころ数年間つづけて発表していた西欧の詩の翻訳の影響下にあったのだ。/そこに上田敏─蒲原有明、薄田泣菫─石川啄木という影響の系譜を考えることができるほどである》(『日本の詩歌 石川啄木』中央公論社、400頁より)
啄木はやがて小説家を志すもうまくゆかず、その慰めとして短歌を多産する。それを集めて出版したのが『一握の砂』である。そして歌人としての啄木の方が有名になった。一方啄木は26歳で亡くなるまで詩を書き続けている。この短い一生を眺めていると、一個の人間の中で、韻文と散文、定型詩と自由律詩の諸問題が混然一体となっているように見える。さらに啄木を通じて文学と社会との関係を考えることもできるだろう。
3.
俳句や短歌、詩を作ろうとする者が作業としてどのような工程をたどるのか考えてみよう。
えらぶ
ならべる
ながめる
くみかえる
無数の言葉の中から単語を選んで並べてみる。それを最初の読者として眺める。良いと思えばそのまま鑑賞する。違うと思えば順番を変えたり単語を選び直したりする。
ざっくりこのような工程が繰り返されているように見える。
赤ん坊が積み木で遊んでいる。四角いもの、三角のもの、赤いもの、青いもの、目の前に広がった世界に、形を与える。創造の作業である。もしかすると、詩作はこれに一番似ているのかも知れない。
4.
筑摩書房から刊行されている『高校生のための現代思想ベーシック ちくま評論入門』という本を読んでいる。2015年11月発行の改訂版である。12ページに「段落相互の関係」を学ぶための例文として外山滋比古氏の「第一次的現実」という文章が掲載されている。
◇刺激的な詩は案外素朴な詩であることが多い
言葉に対して不感症になってしまうことが時々ある。漠然とした不安を抱いていたり、悩みがあったり、現実を直視しなくてはならないような時は特にそう。本を読んでも目は活字を追っているのに頭に残らず、くり返し目を通すのだけれど心に少しも響いて来ない。そんな時は音楽に逃げる。
ところが先日、久しぶりにぐっと肝をつかまれた言葉に出会った。
「黙っている人よ 藍色の靄よ」 永瀬清子
もう土の中に入ってしまった人よ
ひがな一日黙っていまは
しめっぽい所にじっとしている人よ
詩を書く私はいつも自分一人になり切ろうとして
ほかのことは何も考えられなかったから
あなたはきっと とても淋しかったわ
あなたは私を乱すまいと離れて私をみていた
それがあなたの藍色の愛だったのに
私はそれをまるで思いもしなかった
私は今はもう本当のひとりになったのだから
私はいつでも自由にはばたけるのに
なぜかふしぎにあなたがすぐそばにいるみたい
あなたここにほんとうにいて下さいと
云えばひとりでに涙が流れるわ
生きている時 云えもしなかったその言葉
悪い妻 心なしの私は
できるだけあなたに尽くしたいとは思っても
つい遠い夢の方へ心がいったわ
でも世の中の男の人は
どんなに大きな岩みたいな仕事を彫りあげても
そのため妻に不在を詫びようとは思わないのに
私はただ柔らかな身近な泥をこねていただけなのに
なぜこうも可哀想でたまらないの
あなたの方ばかりに私が向いていなかったことが──
つまらない女 くず女
あなたは土の中で
たとえ いいんだよと云ったとしても
枕元によみさしの本をがらくたのように積んで
夜中に眼ざめてその一冊をとりあげる
それが時々地くずれするわ蝶がとびたつふうに
私を生かそうと願っていたわ
すこし離れていまも見ているのね
いいえ死んだのだからもっと近くにいるよと云いたいのね
世の中に適しないで誰の群にも交わらず
あなたは山椒魚のようにたった一人いたのね
岩かげでただ私だけをみつめていた人よ 藍色の靄よ
亡くなった人への想いが淡々と綴られている。存在しなくなってようやく気がつく大切なこと。今更気がついても遅いのだけれど、それがじわじわと実感され、心から離れないこと。この個人の追憶は、夫婦の間のことを越えて、男と女、人と人、生と死、そして永遠へとつながってゆく。何か宿命とかカルマとも関係しているように感じる。私の経験に照らしても、面と向かっていると見えないことが人との関係の中には確かにある。離れて、失って、取り返しがつかなくなって、ようやく見える。そしてそれが後悔という負の感情とはまた別の気持ちに昇華されているようなもの。慈しみにあふれた愛着のような何か。著者は云う「可哀想でたまらない」と。そして死者はかつて「私だけをみつめていた」んだと。詩人として生きていたから、詩の方が気になっていたから、自分を一番大事に思っている人、自分の愛を一番欲しがっている人、そんな存在が見えなかった。岩かげの山椒魚に気づかなかった。
この詩は『あけがたにくる人よ』(思潮社)32頁から35頁に収められている。童話屋が出しているコンパクトな詩集『だましてください言葉やさしく』にも86頁から90頁に載っている。1987年2月17日に書かれた「あとがき」に著者は書いている。
《詩を書く事は自分を削りとる事です。/すこしも自分を削りとっていない詩は世の中に多い。みせびらかす詩、ことばだけの詩は更に多い。/しかしただそれらはこちらに乗り移らないのです。/つまり身を削っても人に乗り移る程のことを書きたい。/今はただそれも願いにすぎないのですが。》(『あけがたにくる人よ』123頁)
目の覚めるような訓戒である。私はこの言葉の前でただただ恥じるばかりだ。そして決意する。身を削りながら書ける人間になろう。なりたい。
◇永瀬清子の短章を味わう秋の夜
窓を開けると涼しい風が入る。虫の声も聞こえる。近所で犬が吠える。レコードに針を落としピアノソナタを聴く。そして、今夜は永瀬清子の『短章集』をひらく。短章集は、短いものなら一行、長いものでも2頁程度の文章が集められたものだ。まるで永瀬清子のツイッターをのぞいているような感覚になる。見方によっては詩の準備段階とも云えるが、本人曰く、詩と同質でありながらより瞬間的に生まれてくるものであるらしい。あるいは宮沢賢治の「心象スケッチ」に倣ったものか。やはりツイッターのない時代のツイートなのかもしれない。そこで私が気に入ったものをいくつかリツイートしておく。引用は「詩の森文庫」の永瀬清子『短章集』(思潮社)から。
トラックが来て私を轢いた時
《トラックが来て私を轢いた時、私の口からは「飢えたる魂」がとび出す。私の肋骨からははめられていた格子が解かれて「自由」が流れだす。/トラックが轢かないうちは、それはただの他人とみわけがつかない。/だから詩を書くことはトラックに轢かれる位の重さだと知ってもらいたい。あんまり手軽には考えてほしうない。》(12頁)
この譬えはスパイスが効いている。「ほしくない」ではなく「ほしうない」という云いまわしがまた良い。
すべての詩は
《すべての詩は祈願の心に要約される。たとえ感情の種々の要素が詩の上に花咲いても、一番深い所にナムと云う声がある。/なぜならば人間のモータリティ(死すべき命、明日なき運命)こそ詩をかくもとだからだ。/今の自分に求め得ぬ安心を、その欠乏を、未知の他者に聴かせて、わが身に加担して貰いたいという願う心が詩を書かしているのだ。見えぬ加担を願っているのだ。》(29頁)
100年後の友を求める。200年後の共感を願う。詩を書きながら私もそんなことを空想することが確かにあった。死を前にした人間の態度、その一つに詩作がある。肉体はいとも簡単に滅びるが言葉は千年の時を易々と超えてゆく。
自分のことばを
《自分のことばをみつける事が一番大切なのだと、昔、詩の書きはじめに師は云われた。/そのことがどんなにむつかしい事かが、次第に理解される。/一つの事も苦しまないで自分の中にとり入れる事はできない。又同じく吐きだす事もできない。/すべてのイカスことばが流行のままであるのは、詩のことばでありえないのは、その手つづきがなされていないからだ。/すべてのご挨拶が詩のことばでありえないのは人並が目標だからだ。/すべての教育のことばが同じく詩のことばでないのは、一段高い所から語られているからだ。/ことばはくだかれて常に寒中の輝く放水を受けていなければならない。/ことばはくだかれて微塵になって、常に光の中に生まれかわらなければならない。》(37頁)
自己に厳しい言葉だ。詩人としての覚悟が示されている。寒中の輝く放水を受けたことばを私は持っているだろうか。次の引用は少し長くなる。詩人永瀬清子の人となりが表現されていてとても興味深いので、あえて全文を。
夜の虹
《「詩についてのあなたの考えをすべて肯定したとしても、自然に関する部分だけは今の自分たちには全然無縁だ」と若い詩人たちに云われた。なるほど。/私はすべて名所的なものは否定したいし、まして小細工的な美景も信じたくない。造られた庭もまして望まない。でも地球の意志みたいなものが自然の中にあり、それは人間よりもより多く、より大きく何かを語っているのを、捕えたくてたまらない。その欲望がいわゆる「五十歳の限界」なのか。/そうした議論のあげくの帰り路は寒い凍てつく二キロの冬の夜だ。/熊山駅を降りた時、雨が降りだして右手から横なぐりに叩きつける。駅を出て人っ子一人いない長い熊山橋を渡りかけた。橋は土提の傾斜をのぼった所に高く架かっている。/その高い空間を一人歩いている時、ふと右頬の空気に異常を感じて、こうもりの蔭にすくめていた顔を東の方にふりかえらすと、美しい月が今静かに熊山から昇ってくるところ。/深夜のふかいふかい空の深淵から、それはしずしずとまぶしいくらい硬質の光でせり上がってくる。/そして全部が宙空に浮かんだ時、おお、冬の夜の時雨を透して行手の小瀬木の山々の上に大きな途方もないあざやかな虹をつくっているではないか。/私はその壮大とも云える夜の虹をはっきりみたくて、こうもりの角度をややもたげた。とたんに突風にやられて傘はおちょこになった。手でどうやら傘をなだめ、又すこし虹の方をみようとすると又やられる。三百六十六米の橋をわたり切るまでにとうとう傘はすっかり廃物になった。しかもたった一人で橋の上で雨と風とたたかっている私を、まひるのように右手の後ななめから照らしている月のまぶしさしずかさ。/虹はますます雨の中で燃えたって、まるで地面にしっかり立っているもののよう。/全くどうすることもできなかった。/たとえば仮にそれは人間が詩をかく心と同じだろうか。まんまるい円をかかげようと思って燃えたっているところの、月光が夜の中に吐いている虹の輪。それは地上では半分の輪。それをくぐりぬけて私は二キロさきの家へかえった。恐ろしいものをみたと鳴りやまぬ心臓の鼓動をおさえながら──。/そして思った。若い人たちには決して話してやるまい。私だけに自然が見せてくれたこの秘密を。》(47頁から49頁)
圧倒的な神秘体験。しかしおそらく誰でも見ることのできる体験だ。「夜の虹」を私はまだ見たことがない。この文章を読んで見たいと強く思った。少し霧がかった夜、月の周りに光の輪が見えることはよくある。しかし虹となると、いくつかの偶然が重ならないかぎり出現しないだろう。月が出ている方には雨雲がないこと。月が照らしている側の空気には霧や雨などで十分な水分があること。そして人はその両者の間に存在すること。「朝の虹」や「夕方の虹」は何回も見ているが、それでも年に一度か二度であろう。さて「夜の虹」となったら、一生に一度あるかどうか。探しに行こうか?
◇秒針と分針と時針
目を覚ます
と
時計が壁にかかっている
近視と乱視のせいで
時間がうまく確認できない
秒針は全く見えない
おまけに
分針と時針が時々入れ替わってしまう
もうすぐ12時だ
と思うと10時であったり
なんだ10時か
と安心して二度寝すると
12時になったりする
秒針は60に分割された円をひたすら進む
と
分針がひとつ進む
こんどは分針が円をひとつ描く
と
時針が次の数字を指す
時針が一周して昼が夜になる
そして
ぼくは目をつむる
◇宮沢賢治の弟子としての永瀬清子さん
永瀬清子さんのエッセイ『すぎ去ればすべてなつかしい日々』(福武書店)には次にような文章がある。
《私にとっての大きなでき事の一つ、それは、宮沢賢治とのめぐり合いであった。/昭和八年の初夏のころ、顔見知りの草野心平さんが名刺印刷の注文をとりに、高円寺の私の家へいらした。たまたま夫の名刺が切れかけていたこともあり、それをお願いすることができた。彼は茶の間でしばらく話して帰り、去りぎわに「春と修羅」という詩集を取り出して、とてもいい詩集なので読んでごらんなさい、と言って置いていった。/草野さんはかねてこの詩人に感心していて文通もしていたのだが、神田の夜店でこの詩集が積み重ねられ投げ売りされているのを見つけ、全部買って、そのころあちこちの知人に「読め」「読め」とすすめ歩いていらしたらしい。その一冊がたまたま私の所へ届いたのである。》(97頁)
心平さんの心意気にはいつも胸打たれる思いだ。それをきっかけに宮沢賢治をひとつの模範とした永瀬さんも流石。縁とはまことに不思議なものである。さらにこの文章の続きには、驚くべき事件についての言及がある。
《宮沢賢治の弟さんの清六さんも、この「モナミ」の会合の時に、大きなトランクを下げて、花巻から出ていらした。その中には東京で出版社十字屋にわたすべき最初の選集の原稿がぎっしり詰まっていて、その出版の件をかねて清六さんはこの「モナミ」での追悼会に出席されたのである。/この会に集まった約二十数人の人々は、まだテーブルにきちんと着かぬ前からトランクのまわりに群がって、これらきれいに清書された詩および童話の原稿をながめ、その美しさ立派さに感動していた。/すると、そのうちの誰かがそのトランクの蓋の裏のポケットから、黒い小さな一冊の手帖を見つけ、「おやこんなものが」と言い、あけて読んだ。それには太い鉛筆で、雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ (中略) とはじまり ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ などと書いてあった。》(102頁)
なんと永瀬さんは「雨ニモマケズ手帖」の最初の発見者の一人だったのだ。この事実はでかい。女性詩人として、農業に従事し、生き方まで宮沢賢治に近づこうとした永瀬清子さん。『短章集』(思潮社)の中にある宮沢賢治への賛辞がほんとうに素晴らしい。
《宮沢賢治、/それはいと小さきものどもの事を書いた人の名だ。》(166頁)
《杉苔の丸太をはこばされている小さな青い蛙ども。おパンのかけらを泣き笑いして喜んでいる鼠の母子。それらは寸分ちがわぬ私ではないか。》(同頁)
《それらいと小さいものは、ソロモンの栄華の極みに比べられた聖なる百合に、すばらしいまっしろな百合に、却って決して劣るものではないと、逆に私たちを力づける。なぜなら私たちはそのいと微小なるものに属し、しかも彼の作品の中では常に彼に味方されているからだ。》(167頁)
《彼が私にとってなつかしい人なのは、すべての他の事よりもそのためだ。私自身が小さい微塵の一粒だからだ。彼ほど小さなものをみる眼、はげます力をもっていた人があろうか。》(同頁)
《小さいものの努力、小さいものに与えられる小さい冠、それをも彼は書きとめてくれた。「ゴーシュは私だ」それは彼が云う言葉であり、又同時に私自身が云う言葉なのだ。》(同頁)
◇ドン・キホーテの夢
天使はみなキャタピラで動くのです
と云う
神学の講義を受けていた
講師はアメリカのどこかの大学の教授だった
複雑な数式を黒板に殴り書きして説明していた
英語で話しているのに
全部理解できた
ピンポンとチャイムが鳴った
そこで目が覚めた
クロネコヤマトの宅急便が野菜を届けてくれたのだ
ぼくは夢の続きが見たかった
あの講義が理解できている自分に酔い痴れていたかった
天使はキャタピラで動く
それはあり得ることだと改めて思った
神が天使を動かすのにいちばん労力がかからなくて済む
そんな気がするからだ
指をそっとふれると天使はするすると滑ってゆく
そんな映像も夢の中で見たような気がする
これを正式に論文にまとめて発表するならば
世界に大きなインパクトを与えるのではないか
期待が膨らむと同時に
それが実際は夢の中のことで
少しも現実的でないのが悔しい
いや待てよ
このアイデア自体は無価値ではないのではないか
キャタピラで動く動物はいない
これは生物の進化としては異様なことではないだろうか
例えばムカデ
彼はとても近いところに進化した
水中を泳いだり空を飛んだり土にもぐったりする生物
なぜキャタピラを持ち得なかったのか
天使はキャタピラで動く
天と人のあいだをつなぐ使者は
進化の外に存在する
のだと講師が云う
◇文化の日の文化的な一日について
いい天気だった。秋らしい穏やかな。文化の日だからどこかへ出かけ、文化的な一日を過ごしたいと思った。詩集を出した友人が記念の展示会を開催していることを思い出し、電車に乗った。展示会場に着いたが鍵が閉まっていた。よく見ると開場時間より30分早かった。入口の前にしゃがんでハーゲンダッツのアイスを食べた。街ゆく人々は平和の象徴だった。
グスタフ・マーラーは、交響曲第3番の第4楽章で、フリードリッヒ・ニーチェの詩に曲をつけている。ユダヤ人として育ち、キリスト教に改宗したマーラーがニーチェを引用するということ。この話を誰かにしようと思ったけれど、話しそびれたので、ここに記しておく。
『ツァラトゥストラ』第四部「酔歌」の最終部分
おお、人間よ、心して聞け。
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠った──、
深い夢からわたしは目覚めた。──
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深い──、
悦び──それは心の悩みよりいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦びは永遠を欲する──
──深い、深い永遠を欲する!」
引用は手塚富雄さんの訳でニーチェ『ツァラトゥストラ』(中公文庫)527頁より
友人は「鉄塔の真下、のいちごのカクテル」という詩を書いた。長編だ。母と娘の物語。勢いのある筆致で。深い永遠を欲している詩だ。母と娘は永劫回帰の象徴であろうか。平成最後の酔歌である。
話は変わる。私が今朝見た夢は、殺されたスズメバチが復讐に来るというものだった。
スズメバチが部屋に入って来たので
カーテンでくるんで床に叩きつけ
何度も踏みつけてからだをバラバラにした
ところが
バラバラになったからだで
スズメバチはなおも立ち向って来ようとする
怖くなってそこから離れたが
動くはずのない羽根を動かし
針を突き出した尾っぽをこちらに向けてくる
しかも落ちている針金や釘をじぶんのからだに取り込んで
からだを再生しようとするのだ
このスズメバチは普通じゃない
得体の知れない恐怖で全身に鳥肌が
再生を許してはならない
棒で叩く
スズメバチの息の根を立つまで
何度も
尾っぽがちぎれて飛んでくる
そして私の腕にそれが刺さる
執念
信じがたい執念
昆虫の執念
目が覚めてからこの夢には物語が付いていると思った。スズメバチを神様として祀っている村があり、そこを訪ねると村人が由来を話してくれ、根絶やしにした筈のスズメバチの巣に一匹だけ幼虫が生き残り、それが成長して村中の人を刺殺していった、その蜂の祟りを鎮めるために、その村ではスズメバチを崇めている、という言い伝え。そんな話があってもおかしくはないと。柳田国男の読み過ぎか。この話もだれかにしたかったが、話しそびれた。
◇ドン・キホーテの詩学
ミハイル・バフチンに『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)という著書がある。それはドストエフスキーの読みの歴史を総括しながら、作者と主人公との関係について、これまでにない新しい観点を導入する試みであり、哲学的にも、実に興味深い論考である。この書名に倣って、私は「ドン・キホーテの詩学」という話をしてみたくなった。
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラの『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』には実に多くの詩が登場する。長いおしゃべりの間に、さわやかな間奏曲のように差し挟まれるそれらの詩は、読者を飽きさせないための一つのサービスであり、また物語の進行を助ける巧みな道具でもある。
騎士道物語の読み過ぎで気が変になったドン・キホーテ(自称)という田舎の郷士が、怪我をして家に戻ってきた時、友人の床屋と司祭がやって来て、ドン・キホーテの姪と家政婦に手伝ってもらいながら、彼に悪影響を及ぼした蔵書をすべて処分してしまうという場面。
「そうします」と床屋が応えた。「ところで残った小型のやつはどうします?」
「そいつらは」と司祭。「騎士道本ではあるまい、詩集じゃよ。」
ひとつを開いてみるとホルヘ・モンテマヨール作『ラ・ディアナ』とあった。残りも全部おなじ種類だろうと思ってこう言った。
「人の頭を狂わせたりしない娯楽本で、騎士道本のような悪さをしないし、することもなかろうから火刑にはおよぶまい。」
ここでは詩に対する司祭の評価は高いのだ。
「これなる大型本の表題は」と床屋。「『詩歌珠玉集』となってます。」
「詩歌もそんなに数が多くなければ」と司祭。「もっと評価されるだろうにな。珠玉に混じった雑な詩を削ぎ落としてもっと身軽にならなければいかん。この作者はわしの友人でな、勇渾な筆致で高尚な詩も書いているのでそれに免じてとっておこう。」
「これなるは」と床屋が続けた。「ロペス・マルドナードの『詩文選集』ですな。」
「この本の著者も」と司祭が応えた。「わしの親しい友でな、詩を口にすると聞く人を魅了するんじゃよ。あの柔らかな甘い声で詠われるとうっとりとなってしまう。田舎詩には少し長いのもあるが、良いもので長すぎたためしはない。いままで選んだのと一緒にとっておきなされ。その横にあるのはなんだ?」
「ミゲル・デ・セルバンテスの『ラ・ガラテア』とあります」と床屋。
作者自身の著書まで登場させるご愛嬌。ここで当時の読者はクスクス笑ったにちがいない。『ラ・ガラテア』は1585年に上梓されたセルバンテスの処女作である。
「そのセルバンテスはわしの長年の親友で、詩歌よりも辛苦の方に精通している男だ。発想に少しは良いところがあり、論ずるところもある書物なんだが結論がない。約束している続編を待つべきだろう。そこのところを悔い改めれば、今はねつけられている慈悲を立派に得るだろうよ。それまであんたの家にしまっておきなされ、親方。」
自作に対する自分評まで披瀝する。引用は岩根圀和訳の『新訳 ドン・キホーテ』(彩流社)81頁から83頁より。
16世紀の作家が残したこの書物が、果たしてどれほどの影響を後世の人々に与えたのか、私はまだよく知らない。しかし、これまでに読んだり、見たり、聞いたりしたものの中に、「ドン・キホーテ的なもの」はたくさん発見できる。例えば、「男はつらいよ」の寅次郎。フーテンの寅さんは、遍歴の騎士にあこがれてそれになりきってしまう主人公に通じている。寺山修二。彼の芝居はドン・キホーテの実践だったのではないか。書を焼かれ家を出る。書を捨てて街へ出る。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んでいる時、またはカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読んでいる時、私の頭の片隅にはなぜかドン・キホーテの馬鹿さ加減がちらついていた。
第二部の終わり、第14章には次のような碑文が出てくる。
羊の群れを追う男
恋に落ちて愛を追い
疎まれて命果て
無惨にも冷たき骸
ここに眠る。
つれなくも美貌の女の
無情な手により命果て
かくして恋の暴君は
帝国の領土を広げる。
羊飼いのマルセラに恋をしてふられ自害したグリソストモ。その墓を掘って埋めた親友のアンブロシオが詠んだ詩である。これなどは、中原中也を想起するエピソードではないだろうか。詩集『山羊の歌』のなかにある「羊の歌」は友人の安原喜弘に宛てたもの。もちろん先に死んでしまうのは中原中也の方ではあるのだが。
◇ポエトリーカフェ100回記念に寄せて
私は第一回の出席者の一人である。ポエカフェの主催者ぴっぽとはかつて職場を共にした仲間である。美術館に行って写真を撮ったり、作品を運んだり、作家と連絡を取り合ったり、振り返ると実に面白い仕事であった。私は毎日舞踏しながら労働した。みんなにサンドウィッチを作ったり、歌いながら電話したり、居酒屋やカラオケ、それにダーツバーなどでアフターファイブを楽しんだり、まるで大学のサークルのような職場だった。彼女とは、自然に哲学や詩の話ができた。ヘルマン・ヘッセが好きで一人ドイツを旅した話など、まことに興味深い話をたくさんしてくれた。思えば、ポエカフェはすでにそのようにして始まっていたのかも知れない。
2009年の夏、私は大量の古本を処分するためぴっぽを訪ねた(当時彼女は古書店で働いていた)。その折、詩を学ぶ小さな会を計画していると打ち明けてくれた。そして、その年の10月31日、土曜日午後3時、神保町。課題詩人は三人。島崎藤村、北原白秋、中原中也の生涯をたどりながらみなで詩を読み合った。会を終え、見上げた秋の夜空の美しさ、不思議な心の広がりを感じながら私は家路についたのだった。
第100回ポエトリーカフェには実に様々な経歴の方々が集われた。詩人、画家、声楽家、古本に関わる人々や読書人たち、それに純粋に詩を学びたいと思っておられる一般の方々(私もその一人)。感想や意見を聞いているとほんとうにためになる話ばかりだ。その中で、声楽をやられている方がこんなことをおっしゃった。「五七五などの定型だと感情をのせて歌うのが難しい」と。本格的にうたを歌われている方の実感としての言であった。これは一考に値する。
俳句を詠む時、我々は五七五の音数にわけていると思いこんでいるが、実際は
ふるいけや・・・/・かわずとびこむ/みずのをと・・・
○○○○○○○○/○○○○○○○○/○○○○○○○○
とこのように8分が3回繰り返されているだけの単調なリズムの上に乗っている。
短歌なら
しらとりは・・・/・かなしからずや/そらのあを・・・/・うみのあをにも/・そまずただよふ
○○○○○○○○/○○○○○○○○/○○○○○○○○/○○○○○○○○/○○○○○○○○
と8分が5回だ。
この単調さが日本語の平坦な発声法には合っているのかもしれない。
したがって、音は五音と七音であってもリズムは8がひたすら続いているだけなのだと考えなければならない。歌い手が心を込めたいと思っても、この単調さはあまりに絶望的である。人の心や思いはどうしてもそこからはみ出してしまうし、揺らいでしまう。自由律がそれに救いの手を差し伸べたとするならばそれも道理なのだろう。ロックンローラーがワオー!と叫んでしまうのは、感情が形式をはみ出すことの現われである。
ふるいけがあって/かわずがとびこみ/みずのおとがした
888
しらとりはとても/かなしいそんざい/そらのあおさにも/うみのあおさにも/そまらずただよう
88888
これは歌にならないし心も込められない機械的な説明文である。しかし定型はそこに休符を3と1入れているだけなのだから、本質的には同様に単調でつまらないものなのだ。
今回のポエカフェで私が朗読した詩は長田弘「世界は一冊の本」であった。くじ引きだから仕方がないのだが、私はこの詩に対して以前から異論があったので、朗読してから異議申し立てをしようと思った。こういう自由な議論ができることもまたポエカフェの良いところである。
「本を読もう」と作者は言う。それに異論はない。しかし「書かれた文字だけが本ではない」となるとちょっと待ちたまえとなる。作者はおそらく世界には本のように読めるものが本以外にもたくさんあることを読み手に知らせたいのであろう。「世界というのは開かれた本で、その本は見えない言葉で書かれている」そうだ。ではそれをどうやって読むのか? 言葉でないものを読むとはどのような事態を指すのか? DNAのゲノム解読のように、世界は読み手次第でどのようにでも解読できるということか。しかし、読む以上は、なんらかの記号に置き換える必要がある。世界が本であるということは、世界が解読の対象物であって、すべて記号化できるのでなければならない。そんな世界に私は住んでいるだろうか?
世界は解読の対象である前に遥かに攻撃的である。光があれば闇があり、熱があれば寒がある。のどの渇きや空腹はすぐにやって来る。休みなく酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出さねばならない。世界はもっと過剰なものだ。世界=本では、その過剰を見えなくしてしまう。世界の限界に存在する私は、そこにいない。本の中に本を読む人は入れないからだ。私は、読む前に、世界の内に存在している。この事実は圧倒的に恐いことなのだ。だれがいつはじめたかもわからないルールの中に投げ込まれて、気が付いたら世界の部分になっていた。その意味が知りたくて、私は本を手にした。文字を解読し、この世界の仕組みを理解する努力をした。「これは何?」という問いに答えてくれる人がこの世界のどこかにいることを信じて。だから「本を読もう」という呼びかけには賛成である。もっともっと本を読みたいと思う。思うからこそ、世界は世界であって、本は本であってほしい。
ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』とマルティン・ハイデッガー『存在と時間』を読み直そうと思う。
◇対読(たいどく):『存在と時間』×『論理哲学論考』
大学時代に購入した哲学書で、何度も読んでみたが結局読解できなかったものがいくつかある。そのうちの二冊にもう一度挑戦しようと思い立った。それが『存在と時間』と『論理哲学論考』である。ただし、これまで通りに読んでいたのでは結果は目に見えている。そこで今回は趣向を凝らして、この二冊を交互に読んで見ようと思った。この世に対話、対談、対論があるように、異なる著書を頭の中で対話させながら読んでゆくという方法。実際にはなかった哲学者同士の夢の共演である。
テキストは、
ちくま学芸文庫の細谷貞雄訳マルティン・ハイデッガー『存在と時間』
法政大学出版局の坂井秀寿・藤本隆志訳ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
を使用する。
対読1
《存在は、それよりも上位の概念から定義的にみちびきだすことができないし、それよりも下位の概念によって叙述することもできない。しかしながら、このことから、「存在」にはもはやいかなる問題もそなわっていない、という結論がでてくるであろうか。断じて否である。でてくる結論は、「存在」は存在者のようなものではない、ということだけである》(『存在と時間』30頁~31頁)
〈ある〉とは何か? 定義せよ!
《世界は、成立していることがらの全体である》(『論理哲学論考』61頁)
それを観ているのは誰か?
対読2
《現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない存在者ではない。それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということによって、存在的に殊別されているのである》(『存在と時間』47頁)
「存在そのもの」という言い方に注意せよ!
《主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ》(『論理哲学論考』170頁)
主体と現存在を関連付けよ!
対読3
《現存在は自己自身をいつも自己の実存から了解している。すなわちそれは、自己自身として存在するか、それとも自己自身としてでなく存在するかという、おのれ自身の可能性から自己を了解している》(『存在と時間』48頁~49頁)
私の私自身としての実感!
《私とはわたくしの世界にほかならぬ。(つまり、小宇宙)》(『論理哲学論考』169頁)
私の中のみんな!
対読4
《現存在には本質上、「なんらかの世界の内に存在する」ということが属している。したがって、現存在に本属している存在了解は、同根源的に、「世界」というようなものの了解と、世界の内部で接しうる存在者の存在についての了解とにも及んでいるのである》(『存在と時間』50頁)
今私がいる世界はどこにあるのか?
《世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない》(『論理哲学論考』61頁)
時間との関わりを考えよ!
対読5
《たしかに、現存在は、たんに近くにあるとか、もっとも間近にあるとかいうだけでなく、それどころか、われわれのひとりびとりがみずからそれであるのである。それにもかかわらず、というよりもそれだからこそ、それは存在論的にはもっとも遠いものなのである》(『存在と時間』55頁)
マルティン・ハイデッガーは1889年9月26日に生まれた!
《哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる》(『論理哲学論考』107頁)
ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは1889年4月26日に生まれた!
対読6
《現存在は、みずから存在しつつ存在というようなことを了解している、というありさまで存在するのである》(『存在と時間』59頁)
自意識のことか? 否、その先の何か!
《対象は、名ざしうるにすぎない。記号が対象の代理となる。わたくしはただ、対象について語りうるのみであり、対象自体をいい表わすことはできない。命題は、物のありかたをいうにとどまり、その物のなんであるかをいうことはできない》(『論理哲学論考』77頁)
記号と記号の向こう側!
対読7
《「現象」という言葉の意義として銘記しておくべきことは、「ありのままにおのれを示すもの」(das Sich‐an‐ihm‐selbst‐zeigende)、「あらわなもの」ということである》(『存在と時間』80頁)
じぶんを照らし顕わす!
《いい表わせぬものが存在することは確かである。それはおのずと現われ出る。それは神秘である》(『論理哲学論考』199頁)
すべてのほんとうの姿!
《現象学の現象の「背後には」、本質上、なんら別のものはひかえていない。けれども、そこで現象となるべきものが、隠れているということはある》(『存在と時間』95頁)
顔と心はセット!
《われわれは事実の映像をこしらえる》(『論理哲学論考』68頁)
君の笑顔!
対読8
《以下につづく考究は、エドムント・フッサールがきずいた地盤の上で、はじめて可能になったものである。彼の『論理学研究』によって、現象学の道がはじめて打開されたのであった》(『存在と時間』99頁)
ハイデッガーは1915年フライブルク大学でエドムント・フッサールの助手となり現象学を学んだ!
《すべての哲学は「言語批判」である。(もちろん、マウトナーのいう意味でではないが。)命題の見かけの論理的形式が、その本当の論理的形式であるとはかぎらない。これを示した点に、ラッセルの功績がある》(『論理哲学論考』95頁)
ヴィトゲンシュタインは1912年ケンブリッジ大学でバートランド・ラッセルの下で研究を開始した!