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2018年の作文・9月(平成ラストまでのカウントダウン)
◇雑感 2018年9月1日平成のこり242日
午後のスコール。買物に行けなかったので、蕎麦屋の出前。天丼、きしめん、カレー南蛮、ハンバーグ定食、ラーメンを注文。いつものようにあっという間に作ってすぐに運んで来てくれる。ありがたし。おなかのぽっこりを直したくて、ダイエットしたいと思っているのだが、結局食べてしまう。せめて内臓を上にあげようと、食後に逆立ち。あまりおすすめできない。
夏目漱石の『それから』を少しずつ読み進める。今日は「四」を読む。代助と三千代の関係が描かれる。三千代の黒目に意識がゆく。三千代は時折頬を赤くする。読者は、代助と三千代のこれからのことが気がかりになる。「四」のシーンはとても重要だ。
明日は日曜日。子どもたちの夏休みは終わったけれど、おまけのような休日。ファックスのインクが切れてしまった。受信がいくつかあるがプリントアウトができない。ストックしておくべきだった。
◇所感 2018年9月2日平成のこり241日
気候の変化に敏感で、頭痛がひどい。夏の疲れが出たのか。横になりたいがやることが貯まっている。夕方晩ごはんの準備を早めにした。ハンバーグと玉葱がおいしく煮込めたので、よかった。ソースもいい味が出た。きょうも夏目漱石『それから』を読む。「五」を読んだ。代助と兄誠吾との会話が書かれている。平凡な長男と気難しい末っ子という関係。バランスの取れた兄弟だと思う。二人で鰻を食べに行く。それがまたいい。
◇感懐 2018年9月3日平成のこり240日
雨が降ってあがって晴れている。でも明日は台風21号が接近してくる。頭痛は治まった。今夜は唐揚げだ。買ってきたやつだ。半額デーだから。五個ずつ五人前を妻が買ってきた。
夏目漱石『それから』の「六」を読む。代助が『煤烟』を読んだりしている。森田草平が新聞に連載していた小説だ。漱石の『それから』も同じ年に新聞で連載されているから、同時代に作中で批評している事になる。それから甥の誠太郎が遊びに来る。それから平岡夫妻のところに行って酒を飲み議論を交わす。現代の日本について。代助の視点は、面白い。地に足がついていない遊民ならではの批評。平岡は、生活者の立場。三千代は、審判者。
夏目漱石の講演集がまた読みたくなった。『私の個人主義』(講談社学術文庫)が書棚にある。これは何度読んでも良い名著中の名著である。
◇感想 2018年9月4日平成のこり239日
21号が上陸。東京にいても強い風が何度も吹き付けて来る。長男はバイトで五反田方面へ。長女もバイトで目黒方面へ。夕方雨が降っていなかったので、長女は自転車に乗って行った。帰りは雨に降られることになる。心配なので迎えにいくことにした。
今夜は鮭を焼く。
夏目漱石『それから』の「七」を読んだ。代助は、平岡夫妻のためにお金を借りるため、嫂(あによめ)の所へ行く。嫂の言い分があまりにもっともなので、代助は弱点を突かれてたじたじ。おまけに結婚を勧められ、実は三千代に好意があることに自分で気が付く。それでお金を借りて、益々三千代に渡したくなっている。
◇想起 2018年9月5日平成のこり238日
21号は北上。東京は昨夜から雨は降らず、時折大きな風が吹いていた。午前3時、私は仕事で五反田方面へ向っていた。20分を過ぎて突然の土砂降り。台風が離れてもこんな風に影響が残るのか。そして雷。閃光と爆音。私はなんでこうも雷が好きなんだろう。空中が光って、街中に鳴り響く。これほどスケールのでかいコンサートはなかなか観ることができない。
荒ぶる神のことを考えた。キリスト教の愛よりも、ユダヤ教の罰する神の方に心惹かれる。十戒の中に、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」とあり、続けて「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」「隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」とある。「出エジプト記」20参照。
きょうは娘が忘れ物をしたので、三田線に乗って水道橋まで行った。電車の中で夏目漱石『それから』の「八」を読んだ。代助はとうとう嫂にお金を借りることができた。それを三千代に渡す。二人きりの時間をもつ。お互いの情が通い始めている。何日かして平岡がお礼に来る。しかし二人の間はぎこちない。漱石はこんな風に書いている。
《平岡はとうとう自分と離れてしまった。逢うたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云うと、平岡ばかりではない。誰に逢ってもそんな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、忽ち切れ切れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した》
明治42年の漱石の眼は、平成30年の今日まで貫く慧眼。
姦通小説である『それから』をユダヤ教の十戒とからめて読んでみたくなった。
◇追想 2018年9月6日平成のこり237日
私はきのう、夏目漱石『それから』の「八」を読んだ。その中に、《神楽坂へかかると、寂りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。中途まで上って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家の棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子の打ち合う音が、見る見る烈しくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦んでいた》という記述があったばかりの所へ、今朝の北海道の地震の報せ。
函館と旭川の友人の安否をメールで尋ねた。さいわい無事であった。しかし停電。全道に影響が出ているという。台風が去ったばかりの所によりによって大地震とは。
荒ぶる天と地と。阿修羅は怒りを抑えきれない。天然の気まぐれは果たして偶然なのか?
今日は夏目漱石『それから』の「九」を読む。代助は父親に呼び出され、渋々出向いて話を聞く。結婚のこと。30歳を過ぎて所帯も持たないのでは何を言われるか、世間体があるからという理由をつけて、なんとか説得しようとする父親を心の奥で軽蔑しながら、個人主義を貫こうとする代助。明治も平成も変わらない家族と個人のすれ違い。これは、封建主義と個人主義の相克という難しい問題ではなく、一人の人間と父親、兄、嫂、その周辺の人々、という極めて平凡な人間関係の問題だと感じた。
◇追憶 2018年9月7日平成のこり236日
きょうは仕事で月に一度の本社へ。途中、駅前の書店に寄って欲しい本が二冊あったので購入。同僚と帰りの電車の中で、会話。仕事のことで不安を感じているようだった。将来の見通しが立たないと人は苛立ちを覚えるのだろう。それでも我々はまだ恵まれていると思う。北海道のことを考えると、いつどこで日常が消え去ってもおかしくはない。だから、「当たり前」は頭の中に置かないことが望ましい。帰りに駅のデパートで、青いシャツと白いシャツを一枚ずつ買った。衝動買い。
夏目漱石『それから』の「十」を読む。代助の内省の描写が続く。代助はどうやら軽いうつ病なのだろう。外界の刺激に敏感過ぎて必要以上に疲れてしまう。彼の癒しは草花をいじることにある。また《彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった》とある。無神論者である彼は《今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄》であると思っている。考えることに疲れ《そこである人が北海道から採って来たと云ってくれた鈴蘭の束を解いて、それを悉く水の中に浸して、その下に寐た》。
ああ「北海道」という言葉が!
代助が眠っている時に三千代が訪ねて来るが、寝顔を見て起さずにまた後で来ると言って帰ってしまう。目覚めた代助はそれを知ってから待ち人のことで頭がいっぱいになっている。しかし人妻である。それから三千代が訪ねて来る。ここでは二人のやり取りがより打ち解けたものになっている。三千代が百合の花を買って来て、それを代助が鈴蘭の鉢に生ける。この場面は実に官能的である。
◇憶測 2018年9月8日平成のこり235日
穏やかな土曜日である。地域ではお祭り。お神輿を担いで子どもたちが、わっしょい、わっしょい、山車を引いて、どんどんかっかっか、とやっている。
夏目漱石『それから』の「十一」を読む。これまでで一番話が散らかっているように感じた。代助は三千代のことを思って、何をしていても上の空である。そこへ嫂の策略で芝居に誘われ、兼ねてより父親から話があった縁談のお相手と強制的に顔を合わせるはめに。結婚と恋愛、都会と田舎のライフスタイル、代助特有の美学について、細かい話が散りばめられているが、読者はこの後の展開を楽しみにしながら、読み進んでいる。季節は夏に向っている。
気になった文を引く。
《彼はこの取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思い出さざるを得なかった。そうして其所にわが安住の地を見出した様な気がした。けれどもその安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかった。ただ、かれの心の調子全体で、それを認めただけであった。従って彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏にしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したに過ぎなかった》
◇推測 2018年9月9日平成のこり234日
仕事中に少し足を挫いた。右足首が腫れているので湿布を貼った。《重陽に足を痛めて案山子かな》という句を作って見たけれど季語が重なっているので困った。でも陽数が「重なる」ということに良い意味があるとすれば、ここでの「季重ね」にも積極的な意味はあろう。《菊の日に足を痛めて案山子かな》としてもよいか。でもこれは川柳である。季語は気にしない。
夏目漱石『それから』の「十二」を読む。代助の心は浮ついたまま。旅に出ようとするが、また三千代に会いにいく。風呂上がりの三千代が団扇を煽いでいる。平岡は留守だ。三千代はかつて代助にプレゼントされた指輪を質に入れてしまったことを詫びる。結局生活に困っているのだ。代助は旅費に当てようとしていたお金を三千代に渡して帰って来る。それから実家に呼び出され、お見合いの相手と食卓を囲む。父親が良い返事を期待していたが、代助は相変わらず煮え切らない態度。
代助と三千代のシーンはいちいち色っぽい。読者もドキドキする。
中学生の娘が、友達とお祭りに行って遅くなると云う。夜10時までいても良いかと聞いてくる。許すべきかどうか。迎えに行けばよいのだが、どうしたものか。
◇測量 2018年9月10日平成のこり233日
今日は一日お休みである。ゆっくりできた。昨晩お酒も飲んだ。ニラまんじゅうが美味かった。雨が降ったりやんだり。お昼寝もした。カレーライスを食べた。
夏目漱石『それから』の「十三」を読む。息がつまる展開。すごくドキドキした。代助はまた三千代のところへ。今にも抱きしめそうになる。だが気持ちをぐっと抑えてすり抜ける。それから平岡の勤め先に行く。平岡との会話は、神経戦。消耗すれど進展せず。代助の空回りが続く。印象の残った文を引く。
《もし馬鈴薯が金剛石よりも大切になったら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考えていた。向後父の怒に触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼は厭でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に齧り付かなければならない。そうしてその償いには自然の愛が残るだけである。その愛の対象は他人の細君であった》
代助にとって、父親や兄夫妻は金銭上の繋がりによって結ばれていて、平岡夫妻とは、恋愛と友情と嫉妬の関係で結ばれている。どの間柄とも均衡を保たなければ、代助は生きてはいかれない。三千代には近づきたいが、平岡との友情は壊せない。父親からは離れたいが、お金は貰いたい。一見すると、主人公はひたすら「わがまま」な男である。このような人間関係の力学が繰返し描写されているのが『それから』なのだ。距離の美学。
◇測定 2018年9月11日平成のこり232日
昨夜、仕事で失敗する夢を見た。今日、起きて仕事をしたら、夢のように失敗した。正夢だ。予知夢だ。そんな一日のスタートだった。図書館へ行った。短歌に関連する本を数冊返した。代わりに夏目漱石に関する本をいくつか借りた。
夏目漱石『それから』の「十四」を読む。代助遂に動く。縁談をきっぱり断って、三千代を取る決心を固める。嫂に自分には好きな人がいると漏らす。それから三千代を自宅へ呼ぶ。百合の香りが充満する部屋。外は梅雨の雨。告白。涙。言い訳。涙。残酷な振る舞いだ。代助、それはあんまりだよ。ここがこの小説のクライマックスか。後味が悪い。雨が上がって雲が流れ、月が出る庭に一人代助。殴ってやろうか。
モーツアルトの室内楽のCDを流す。余韻に浸る。バイオリンとピアノの会話。
◇計測 2018年9月12日平成のこり231日
北海道の電力不足。現代文明の脆弱さが七年ごとに白日の下にさらされて途方に暮れている日本人。この姿を明治の文豪ならどう見るか。
夏目漱石『それから』の「十五」を読む。代助はヒーロー気取り。愛する者のために家族と戦い、友と戦い、社会と戦う覚悟でいる。それから父親に呼ばれる。怒鳴られるかと思いきや父親は弱り切っている。拍子抜けしながらも、結婚の話は断る。お前の面倒はもう見ないと静かに告げられる。妙にリアルな展開。文を引く。
《彼は三千代の前に告白した己れを、父の前で白紙にしようとは想い到らなかった。同時に父に対しては、心から気の毒であった》
《何方付かずに真中へ立って、煮え切らずに前進する事は容易であった。けれども、今の彼は、不断の彼とは趣を異にしていた。再び半身を埒外に挺でて、余人と握手するのは既に遅かった。彼は三千代に対する自己の責任をそれ程深く重いものと信じていた》
《彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変った様に父の前に立った》
恋が人を変えたのか? それとも他に理由があったか? 三千代の涙と代助のこの変化については後ほどじっくり考察する必要がある。
今日はCDを三枚買った。サティのピアノ曲(詩の朗読付)。ヴィヴァルディの四季。くるりの昔のシングル。
◇計量 2018年9月13日平成のこり230日
お昼に近くのパブでパスタセットを食べた。夏野菜とサラミがピリ辛ソースとよく合っていた。食後にカフェラテをすすりながら、本を少し読んだ。石原千秋『漱石と三人の読者』(講談社現代新書)。漱石関連の本は今何を読んでも面白い。そういうタイミングなのだ。
「三人の読者」とは、「顔のないのっぺりとした存在」「何となく顔の見える存在」「具体的なあの人」という三種の読者のことを想定しているようだ。書き手にとってタイプの違う読者の視点から小説の成り立ちを論じるというこの論考、新発見がありそうでなかなか興味深い。
この他にも、三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書)、十川信介『夏目漱石』(岩波新書)、山口謠司『漱石と朝日新聞』(朝日新聞出版)といずれも新書ばかりを借りた。新書から初めて、この先どんどん文献にあたっていくつもりだ。
夏目漱石『それから』の「十六」を読んだ。これまでで一番芝居がかっている。特に代助と平岡のやり取り。真剣なやり取りなのだが、浄瑠璃のようでもあり、歌舞伎のようでもあり、ドラマのよう。代助のわがままはキルケゴール的自己中心性である。単独者としての代助。じぶんが友人に譲った女性をあとから奪い去るという反倫理。キルケゴールの『反復』を読み返したくなる。『聖書』との関連も考えたい。
結婚生活は日常に埋没する方向であるのに対して、恋愛は日常から逸脱する方向にベクトルが向いている。また家庭は自ら脇役を演じる場であるとすれば、恋愛は主人公として舞台に上がろうとすることであるように見える。代助は主人公だから結婚が見えない。家庭が見えない。平岡には結婚生活と家庭が見えている。今回私は平岡に同情した。
◇計画 2018年9月14日平成のこり229日
午前、知人の葬儀に参列。雨がしとしと降っていた。喪服を着た人々が遺体を囲み、花を棺へ。最後のお別れ。生と死。繰り返される。永劫回帰。輪廻。それとも終末。
夏目漱石『それから』の「十七」を読む。代助は平岡に絶交され、三千代は病気で寝込み、二人は会えずにいる。何度も平岡宅の前で様子を窺うが、分からずに戻る。ほとんど発狂寸前。それから兄誠吾がやってくる。手紙が届いたとのこと。平岡が代助の父に事の詳細を書き送ったもの。中身に相違はない旨を兄に伝える。兄激怒。家からも絶縁。ざまあみろ! それから家を飛び出し、飯田橋から一人電車に乗る。
《仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。》
これが結びに一文である。「くるり」と「赤」と「電車」というワードで連想できるものがある。しかし、内容はムンクの「叫び」である。ムンクもしくはゴッホの絵でこの場面を描いてもらいたくなった。
17日間かけて、一話ずつ『それから』を読んで見た。良い読書の仕方だと思った。朝の連続テレビ小説を毎日楽しみに観るように、小説を味わった。精読できた。全体の感想は明日まとめよう。代助に関しては、繰返し「ざまあみろ!」と言いたい。このまま漱石の『門』を読んでも良い。しかし、しばらく考察に時間を費やすことにしよう。
◇読後 2018年9月15日平成のこり228日
夏目漱石『それから』読了。思うままに読後の感想を書いておく。
この小説は閉じない小説だ。全体は一つの悲劇ではあるのだが、その結末から得られる教訓が何一つない。おちがない。途中でぶつりと中断された話である、と言ってもよい。
にもかかわらず、丹念に「一」話から「十七」話まで読んでみると、印象に残ったシーンがいくつもあった。そして、そのシーンをもう一度味わってみたいと思わせる美しさがあった。
主人公の代助に関しては同情できない。否、20代の時に読んだ時は、迷いなく代助の側に立ってこの本を読んだ。こんな純粋な魂をなぜ周りの人々は理解しようとしないのか? 代助の事を分かってあげられるのは自分しかいない。などと思っていたから、代助の唯一の理解者三千代に対しても理想の女性であると勝手に思い込んでいた。『罪と罰』で言えばラスコーリニコフにとってのソーニャである。
ところが30年近く経って、精読してみると、この小説の中で一番の裏切り者は三千代なのである。したたかに代助に近づいて、その気もないのに、思わせぶりな振る舞いを繰返し、代助から金品を引き出している。代助の方と言えば、自分が単独者であり誘惑者であると信じて疑わない。女はそんなに甘かぁないのだよ、代助君。
過去の思い出は思い出として大切に胸の中に仕舞い込んではいるだろうが、時が流れ、状況が変化すれば、甘い記憶なんぞ何の値打もないのである。
貰った指輪を質に入れ、平気で何もはめていない指をみせたり、後日買い戻して大切に保管しているように見せかけたり、百合の花束を買って来たり、代助のコップを使って花瓶の水を飲んで見せる。三千代こそ誘惑者なのである。
まんまと代助は罠にかかって身を破滅させることになる。代助が半狂乱状態になった場面でこの話をやめておいたのは、その意味では必然だったのかもしれない。
読者が共感できるキャラクターは他にもいる。人として一番人情がある義理の姉の梅子。平凡だが最も良識のある兄の誠吾。激動の時代を家族のためによく生き抜いた父の長井得。必死に生活闘争を繰り広げ本当は妻三千代を一番愛している親友の平岡常次郎。書生として代助の世話をやきながらこの物語の一部始終を観察しているだろう道化役の門野。どの登場人物を主人公にしてもおそらく読者は連載を楽しみに待つことができたに違いない。スピンオフがあっても良いのではないか。
『それから』という小説はそういう意味でも閉じていない小説である。読者が次々に新しい展開を想像できるように書かれてある。代助が一番主人公に向いていない人物だったのではないだろうか。
柄谷行人は解説の中で『それから』は姦通小説だと言っている。しかし、読んでみたら、誰もその悪性に気が付かない究極の悪女小説であった。私はそのように解釈する。
◇読解 2018年9月16日平成のこり227日
石原千秋『漱石と三人の読者』(講談社現代新書)の中に、きのうの私の感想文に関連する記述があったので引用する。
《漱石が片上天弦の言うような意味において「結末」に「解決」を与えた「小説」は、登場人物の一人甲野欽吾の悲劇の哲学で勧善懲悪的な物語を締め括った『虞美人草』一編だけだろう。『三四郎』も『それからも』も『門』も、「ただ口の内で迷羊、迷羊と繰り返した」とか「代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した」とか「「うん、然し又ぢき冬になるよ」と答へて、下を向いたまま鋏を動かしてゐた」という持続のイメージで締め括られているし、「小説」にはたしかに終わりがあるのに「物語」はいっこうに「結末」を迎えていなかったり(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)、「物語」が終わっているのに「小説」の〈おわり〉が〈おわり〉でないことを告げていたり(『道草』)するものばかりなのである。そして、好都合なことに『明暗』は未完に終わった!》(79頁~80頁)
石原氏は、自然主義文学との対比において漱石の特長を浮き彫りにしている。「無解決無理想主義」と呼ばれた自然主義文学についてこれまで詳しく調べたことがなかったので、とても刺激的な論考だった。引用を続ける。
《これらの漱石の「小説」は、まさに「習俗的道徳」による「結末」での「解決」をこそ回避し続け、あえて空白にし続けていたと言える。漱石の「小説」に構成上の破綻や構想変異がしばしば指摘されてきたのも、おそらくこのためである。さらに言えば、「結末」を空白にしておくことで、漱石の「小説」の読者は決して辿り着くことがない全体を志向することになる》(80頁)
なるほど、それで私は、三千代が悪い人間であるなんて一言も書かれていないのに「三千代悪女説」を思いついてしまったわけだ。
《もしそう言ってよければ、自然主義文学は「構成」そのものを愚直に排除しようとしたが、漱石は「構成」を排除する方法を「構成」に組み込んだのである。読者が仕事をする、つまり想像力を働かせる場所を「小説」の内部に作り出すためである》(80頁)
これが本当なら、そうとうやべえぜ漱石!
◇三つの詩 2018年9月17日平成のこり226日
「風」
風
と云った時
もう風は通り過ぎているだろう
風が吹く
という言い方は
同語反復である
吹かない風などないからだ
ではなぜ人は
風が吹く
と云ってしまうのか?
雨が降る
川が流れる
火が燃える
と
誰か
どこかで
今日も云う
「静かな休日の午後に思う」
三連休
の
真ん中
で
近隣
の
皆さん
は
お出かけしたのかしら
いつになく
静かな
午後
三人
の
子どもたち
も
それぞれの用事
で
お出かけ
珈琲
と
ラスク
を
テーブル
に
用意して
新書
を
開いて
読んでいる
と
小鳥
が
鳴いた
人生には筋書きがない
と
不図
思った
でも
このラスク
が
ここに至るまで
の
過程
に
は
きっと
物語
が
ある
はず
そして
ラスク
を
かじる
「虫コンチェルト」
一郎は真夜中に呼び出され
コオロギが出迎える裏庭の岩の前に
姿勢正しく腰をおろしました
するとキリギリスがあらわれ
一礼したあとくるっとお尻をこちらに向け
指揮棒を振り上げました
虫たちのコンチェルトの始まりです
スズムシたちがスローテンポで静かな旋律
その後をコオロギたちが音を重ね
ウマオイがスイッチョンと高音で飾ります
やがてハーモニーが盛り上がりを見せ
クツワムシのがちゃがちゃが鳴り響き
カンタン
マツムシ
カネタタキ
が
それぞれ主題を美しく反復
ああ
なんと素晴らしいオーケストラ
一郎は目を閉じて
瞼にあたたかな涙を浮かべました
◇反復 2018年9月18日平成のこり225日
夏目漱石『それから』精読の余波で、私は権力論について考えはじめている。同時に恋愛論も。おそらく漱石の小説は、必然的にこの二つの方向に思索が枝分かれしていくようになっているのではないか、そんな風に感じる。それで玉突きでキルケゴール『反復』を手に取った。岩波文庫の桝田啓三郎訳である。
《それから二週間ほどのあいだ、彼はときどきわたしのところに姿を見せた。彼は自分でも誤解に気づきはじめた。彼の恋い慕う娘は、すでに彼にとって、重荷になっていたとさえいえる。けれども、彼女は彼の恋人だった。彼がかつて愛した唯一の恋人、彼がいつか愛するようになるかもしれない唯一の恋人であった》(21頁)
「それから」という箇所から引用を始めたのは偶然である。しかし「それから」という接続詞の後からの語りだけを集めてみるのも面白いかもしれない。恋する青年を見守るという体裁で書かれたキルケゴールの恋愛論『反復』。引用を続ける。
《しかし、それだのにまた、彼は彼女を愛してはいなかった、彼はただ彼女に憧れていただけだったのだ。そのうちに、彼自身にいちじるしい変化がおこった。わたしが夢にも彼に予期していなかったほどの詩的創作力が彼のうちに目覚めたのである》(21頁)
「しかし」という接続詞もいい。夏目漱石『しかし』という小説がないのが残念なくらいだ。嬉しい事に「詩人誕生」の様子が書かれている。引用を続けよう。
《それでわたしには万事がわけなく呑み込めた。あの少女は彼の恋人ではなかったのだ、彼女は彼のうちに詩的なものを目覚めさせ彼を詩人にする誘因だったのである》(21頁)
「それで」という接続詞。もうそれはいいか。この道程をいったい何人の詩人たちが経験したことだろう。島崎藤村、北原白秋、高村光太郎、中原中也、日本近代の詩人に限っても恋に誘発されて詩を書きはじめた詩人は多かった。否、一見恋愛と無縁のように見えた宮沢賢治や萩原朔太郎でさえ、その詩作の原点には、おそらく異性への限りなき憧憬は秘められていた筈だ。引用を続ける。
《だからこそ、彼は彼女だけを愛することができ、彼女をけっして忘れることができず、けっしてほかの女を愛しようとはしなかったのだ》(21頁)
「だからこそ」という接続詞は力強い。この一文、キルケゴールがレギーネに宛てた想いであったに違いない。続けよう。
《けれども、彼はつねに彼女をただ憧れていただけのことであった。彼女は彼自身の全存在のなかに吸収されてしまったのである》(21頁)
「けれども」の後は言い訳が来る。レギーネよ、私が婚約破棄に至った本当の理由を知って欲しい、という想い? それとも恋愛する男一般の法則について? きっと両方の意味で。
《彼女の思い出はいつまでもいきいきと残ることだろう。彼女は彼にとってあまりに大きい意味をもってしまった、彼女は彼を詩人に仕上げてしまったのだ、だからつまり、彼女は自分自身の死刑判決書に署名してしまったのだ》(21頁)
人が恋人を殿堂入りさせてしまった時、その先の進展はもう望めない。恋が理想的であればあるほど、結婚という制度からは遠く離れざるを得ない。キルケゴールにとってレギーネは永遠の女性だったのだろう。レギーネからすれば大変迷惑な話である。男は、しばしばそういう有難迷惑に気が付かない。勝手にロマンチックに浸ってろ!
夏目漱石『それから』の主人公代助にとって、三千代は同様に「永遠の女性」であって欲しかったのだ。「三千代」という名前がそれを象徴している。「三千の代」はつまり永遠に通じている。恋愛対象であっても結婚の相手には選べなかった。それで平岡に譲るかたちを取って逃げた。そのしっぺ返しが、代助の苦悩と発狂である。私の読解では、三千代は「無意識の偽善者」の究極のパターンを演じた。平岡にも、代助にも、そして読者たちにも気づかれず、代助に復讐を遂げてしまったからだ。
キルケゴールは、果たしてレギーネに復讐されたのだろうか? ちょっと気になる。
◇権力 2018年9月19日平成のこり224日
夏目漱石『それから』を読んで「恋愛論」と「権力論」に私の思索が枝分かれしたという話をきのう書いた。きょうは「権力論」について少し触れたい。主人公の代助が平岡宅で酒を飲みながら、自分の考えを長々と語っている場面(「六」話)がある。
《日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじ張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ》
このあとも演説はつづくのだが、この言い草が面白いのは、代助が職に就かず「高等遊民」を続けている理由としてそれを語っていることだ。この構図は、いつの世も同じなのかもしれない。国家は悪である。だから働かない。社会は間違っている。だから参加しない。理由はいつも大きく。行為はいつも小さい。
引きこもり、ニート、モラトリアム人間、無気力な若者、呼ばれ方は時代ごとに変遷するが、原型が明治に存在していて、その代表が代助のような思想の持ち主だったのかもしれない。私の思春期にも、同質の気分はあった。父親が実業家で、バブルに乗って稼いでいたから、自然と生活に余裕が生まれ、同時に私は無気力になっていった。その頃の私にとって、原因は社会にあった。代助のように「時代が悪い」と呟いた。
社会に対する不満が反抗的な行動に移らずただ黙ってしまうという傾向性。それは個人の資質に要因が求められるのかもしれないが、21世紀になって、社会の中でその傾向性がより強まっているということを考えると、「権力」の仕業なのではないかと勘繰りたくなる。
『それから』の「十三」話には、幸徳秋水に言及している場面がある。平岡が国家権力から狙われた幸徳秋水について面白い話題として取り上げたのに対し、代助の反応はほとんど無関心であった。大逆事件の一年前にあたる。
キルケゴールは、コンスタンティン・コンスタンティウスという偽名を使って『反復』を世に出した。これに倣って、私がもし『権力』という本を世に送るとしたら、やはり偽名を使うだろう。それで、偽名になりそうな名前を色々考えてみた。
アラブの哲人・サハラナターヘル
インドの言語学者・イバンランジュ
イタリアの詩人・クビーノシボン
ギリシャの経済学者・アリプトラテス
ありそうで実はない人名である。
サハラナターヘルは云った
「権力者に関してとやかく云うことは悪いことではない。そうした自由があることは大切なことだ。ただ心配なのはそれで本当の権力が何かを見失う事、権力の正体を取り逃がす事なのだ。しかし権力とは一体何だろう?」
イバンランジュは書いている
「生命そのものが目には見えないように権力それ自体は見ることができない」
「支配とは支配されていることを忘れさせ、支配しているつもりになっている人間を多く生み出す事に他ならない」
「言語の習得、それ自体が実は権力の策謀なのだ」
クビーノシボンの言葉に
「中身の詰まった力は権力の名にあたいしない。権力の中心は常に空っぽでなければならないからだ」とある
アリプトラテス曰く
「機会さえあれば誰もが権力者になり得ること、それを餌にして権力は人間を支配しているのだ」
「権力の正体を暴こうとしてただで済んだ者は一人もいない」(こががっこ)
◇虚構 2018年9月20日平成のこり223日
きのう私は人名を捏造した。たぶん存在しない名前だと思う。「アリプトラテス」という名は、アリストテレス+プラトン+ソクラテスから思いついた。それをしてみて疑問がわいた。それは、この世界にアリストテレスは実在しアリプトラテスは虚構であるというのは真実なのだろうか? という問いである。みなが歴史上の哲人としてアリストテレスの実在を信じ、その師匠であるプラトンを信じ、その師匠であるソクラテスを信じている。もし、このこと自体がどこかで誰かが作り出した虚構だったとしたら?
例えば、5歳の子どもに訊いてみるとよい。
ねえねえ、アリストテレスって誰だか知ってる?
えッ 何?
アリストテレス
アリとキリギリス?
ちがうちがう アリスト テレス
ああ 鏡の国の女の子でしょ。
子どもたちにとってはアリストテレスの方が虚構でトトロの方がよっぽど実在である可能性が高い。
権力論に本格的に取り組むための準備として、少し本を探している。先日、図書館の新刊コーナーに『神の亡霊 近代という物語』という本があったので、借りてみた。東京大学出版会が今年の7月31日に出版したもので、著者はパリ第八大学心理学部准教授の小坂井敏晶氏である。私はこの本を手にするまで小坂井氏の存在をしらなかった。一読して肌になじむ文体だったので、その思索の痕跡を辿るのに障害を感じなかった。すごい人はいるものだ。「真理という虚構」という文章から引用する。
《人生には悲しみや苦しみがつきまとう。しかし、それらを和らげれば済むという問題ではない。近親相姦タブーがあって初めて、オイディプスの悲劇が意味を持つ。韓流ドラマにも同じテーマが頻出し、登場人物が葛藤する。だが、そのような禁忌がなければ、物語がそもそも成立しない。一夫一婦制を知らない群婚社会では妻帯者や人妻への恋慕・嫉妬が文学のテーマにならない。苦悩のない世の中で人間は生きられるだろうか》(386頁)
近代になってそれまでにはない倫理が広まり、同時に新しい葛藤が生じた。夏目漱石が敏感にキャッチした新しい苦悩は、その後百年以上変わらずに我々を悩ませている。引用を続ける。
《神は死んだ。近代の息吹を開いた時、正しい世界の虚構性が露わになり、根拠が失われる。恣意的で無根拠の世界に人間は投げ出された。だが、宗教への依存を表向き禁じながら、近代も依然として虚構を手放さない。根拠が捏造された瞬間に、その虚構性が人間自身に隠蔽される。人間がいる限り、姿を変えながら神の亡霊は漂い続ける》(387頁)
権力という目には見えない存在の正体を暴き出そうとする時にこのような同伴者がいることはとても心強い。
◇転向 2018年9月21日平成のこり222日
雨の降る神楽坂にて、中野重治の詩について学んだ。戦前の日本で革命運動に目覚め、弾圧を受け、転向し、再び共産党に入党するも除名になり、批判の書を出した中野重治。評価は分かれるところだろう。しかし、室生犀星の下で堀辰雄らと文学について語り合っていた頃の青年中野重治のことを思うと、胸がわくわくする。青春の熱いパッションが真っすぐに立ち上がっている。
きょうはちょっと詩が書きたくなった。
君の美しさに手を出すことはできない
誰も禁じてはいないのに
運命か偶然か
法則か混沌か
どんなに衝動的な感情が湧きあがって来ても
それだけはできないようになっている
脳裏にはその美が刻印され
私の中から消えることがない
イデーが欲しい
イデーを掴みたい
イデーに騙され
イデーに溺れたい
私は紳士の皮を被った少年である
タイトル:イデー 2018.9.21 こががっこ
◇転用 2018年9月22日平成のこり221日
岩波文庫のキルケゴール『反復』(桝だ啓三郎訳)を読み進めていくと次のような一文が出て来る。
《またしばらくの時が過ぎた。わたしも一日一日とやつれてゆく青年といっしょになってほんとうに悩んだ。けれどもわたしは彼の悩みにあずかったことを少しも悔いはしなかった。少なくとも彼の恋にはイデーが働いていたからである。(こういう恋は、ありがたいことに、少なくとも実人生ではときどき見うけられるのだ、ところが長編小説や短編小説には探しても見つかるものではない。)イデーが動いている場合にのみ、恋には意味がある》(26頁)
「イデー」はプラトンの「イデア」からの転用である。現象世界に対してイデアの世界を対置し世界を把握する。しかし、キルケゴールのここでのイデーの使い方は少し謎である。この謎をめぐって考えを進めていく必要がありそうだ。プラトンという人名が「プラトニック」の語源になっていることはヒントになるかも知れない。しかも小説には描くことができないという。漱石だったらこの見解にどう反応しただろう。否、吾輩ならこのイデーを表現できる、と反発しただろうか。
《イデーは愛における生命の原理なのだ、だからイデーのためには、必要とあらば、生命をも、いやそればかりか、恋そのものをさえも、たとえ現実がその恋にどれほどの恵みをたれていようと、犠牲にしなくてはならぬが、このことを確信して感激を覚えないものは、詩の世界から閉めだされているのである》(27頁)
生命も、恋も犠牲にできるほど価値のあるイデー。いったい何を指している? 詩人だけがそれを共有できると。うん。面白いじゃないか。「悲劇」の種子?
「イデー」
君の美しさに手を出すことはできない
誰も禁じてはいないのに
運命か偶然か
法則か混沌か
どんなに衝動的な感情が湧きあがって来ても
それだけはできないようになっている
脳裏にはその美が刻印され
私の中から消えることがない
イデーが欲しい
イデーを掴みたい
イデーに騙され
イデーに溺れたい
私は紳士の皮を被った少年である
◇転機 2018年9月23日平成のこり220日
早朝から演歌の歌詞を思いついた。
「みつめていられるそれだけで」
この世でしてはいけないことばかりしてしまうのはなぜ?
この世でしてはいけないことだとは知っているのになぜ?
聖書に書いてあるでしょう
それはしてはならないと
あなたを
見ていたいだけ
みつめていられる
それだけでいい
2018.9.23(曲付)
秋の晴れ間が気持ちいい。散歩しよ。
◇転換 2018年9月24日平成のこり219日
きのうの夜、『声の聞こえる野鳥図鑑』を使ってモズの鳴き声を聴いて、夫婦で俳句を作った。そして二人してNHKに投稿。どうなることやら。
今朝は、玄関の横にある花壇を整理。この夏伸ばしたい放題にさせていた雑草を引っこ抜いた。突然の天変地異に見舞われた虫たちが大あわて。人間は巨人だ。理不尽な巨人だ。虫たちは「神の怒り」を感じたかのように四方八方へ散った。バッタが一匹飛び出して、葉っぱの上に止まると「何してくれちゃってんだよ」とじっとこちらを睨んでいた。予定では明日、パンジーを買って来て、きれいに並べるつもりでいる。
振替休日の月曜日。「中秋の名月」も夜中に見ることができた。雲が多かったので、幻想的な月見だった。
久しぶりに GOING UNDER GROUND のCDを爆音で流した。彼らの曲はせつない。でもせつない気分に浸りたい時が人間にはある。音楽には即効性がある。
夜は、家族みんなで外食の予定。
◇転回 2018年9月25日平成のこり218日
人の欲望が見えなくなってきた。老眼と一緒で、年を取ると心まで見えにくくなるのかもしれない。原因はこちらにある。人間に関心がなくなってきてしまったのだろう。20代30代の頃はとにかく目の前に現われる人が自分にとっていかなる人物なのかということに関心があった。親友になるか、恋人になるか、結婚相手になるか、敵になるか、暴力をふるってくるか、優しい声をかけてくれるか、利益をもたらすか、危害を加えてくるか、意味があるか、ないか、などなど。
出会いは、人生の豊かさに直結している。不幸にも関係している。だから人をよく観察し、見極め、選んだのである。それが年を取ると、面倒くさいが先に立ち、あまり考えなくなってくる。道を歩いていても、前から来る人はみな通りすがりの他人ばかり。こちらから声をかけたり、向こうからかけられたりすることはない。あってもビラやチラシやティッシュを渡されるくらいなもの。
欲望が見えない。困ったものである。
雨が降っている。知人から頂いたステーキを焼いて食べよう。レタスも食べよう。
◇言葉の習得 2018年9月26日平成のこり217日
流暢に言葉が話せるようになること
言語を自由に操れるようになること
で
逆に
人は言葉によってがんじがらめに縛られてしまう
このことに
無自覚であるならば
権力の思う壺なのだ
支配とは
支配されていることを忘れさせ
支配しているつもりの人間を多く生み出す事に他ならない
雨のやまない一日である。水曜日である。「小説NON」に連載中の宮内悠介の小説を読む。面白い。図書館に小坂井敏晶『神の亡霊』を返しにいく。
◇言の葉 2018年9月27日平成のこり216日
大学生の頃から、ずっと「言葉」を問題にしてきたように思う。「言の葉」という表現は、いろんな連想を生む。芽が目で、花が鼻で、実が耳で、葉が歯であるとすれば、「言」は「歯のある場所」から出て来るわけだ。
ウォルト・ホイットマンの詩集のタイトルは『草の葉』である。
「草の葉」と「言の葉」に関係があるかどうか分からぬが「言い草」という表現もある。
私は以前にも同じような事を考え、そしてどこかで喋っている気がする。デジャヴ。思考の中にいくつも語彙が巡っている。繋がったり離れたりを繰返し、私は「意味」のあることを考えたように錯覚する。しかし、考えたことを「歯のある場所」から外へ出してみても、それがそれほど重要なことではなかったりする。
「事の葉」という言い方はどうだろう?
「物の葉」は?
「理の葉」は?
「時の葉」は?
「空の葉」は?
「存在の葉」?
「無限の葉」?
「虚無の葉」?
メタレベルで「言葉」を問題にしていると日常言語が空々しく感じられてしまう。それでも近所の人に会えば「こんにちは」と歯のある場所から言の葉は飛び出す。コンビニに行けば「これお願いします」とか「どうも」とかが飛び出す。不意に道を尋ねられても、平気な顔で「そこを左です」と出る。全部、無視して生きられないのだろうか?
「方法的懐疑」で近代的自我を発見したデカルトに倣って、「方法的沈黙」という実験をしてみたくなった。
ただし禅僧たちがすべて証明済にしている可能性が大である。
無・理!
◇駄洒落 2018年9月28日平成のこり215日
駄洒落を詩にすることはできるか、という課題を思いついた。
橋の端を走る
これはダジャレか?
ダジャレとは何か?
橋の端を走れ
という王の命令
失敗して河に落ちる奴隷
それを見て笑う観衆
橋の端を走る
が冗談にならない状況でも
これはダジャレか?
ダジャレとは何か?
箸の端を持って
橋の端を走れ
駄洒落詩「ハシノハシヲハシル」 2018.9.28 こががっこ
この詩を解釈する時、日本語でないと通じない(翻訳不可能)。
「橋」「端」「箸」「走る」がみな「ハシ」と発音されることを知っていなければならない。
さらに、「ハシ」という発音に関して、それが意味するものによってイントネーションに違いがあることも知っていなければならない。関西と関東ではイントネーションが異なることも。
そして、なによりそれが「駄洒落」という言葉遊びになり得るという知識。
メッセージとコード。非常に複雑な思考のプロセスを経なければナンセンスに陥る。すでに上の詩を「ナンセンス詩」と解している人もいるかも知れない。そもそも「詩」ではないと考える人もいるに違いない。
結露の結論
それは
ネギを値切ること
そして
ネジを捩じること
さらに
カブを被ること
であった
駄洒落詩「結露」 2018.9.28 こががっこ
これはナンセンス! 駄洒落について考えることで、言葉の恣意性やバカバカしさを暴き出すことができるかも知れぬ。
一日よく晴れていた。しかし台風24号の接近が危ぶまれている。用心せよ。冗談は通じない相手であるがゆえに。
◇韻 2018年9月29日平成のこり214日
駄洒落詩を書きながら思った。韻を踏むこととどう違うのか? 作者が駄洒落だと思って作った詩を「韻を踏んでいる」と解して読む読者はいるだろう。言葉遊びをしているとシュールレアリスムでなくても自動に生成されてしまうものがある。作っている側の意図とは別に言葉が勝手に動いてしまうのだ。自律神経のように。またエクリチュールの働きによって。
那珂太郎の「〈毛〉のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス」を例に取ろう。
〈毛〉のモチイフによる或る展覧会のためのエスキス
b
けだものの毛くだものの毛ももの毛ものの毛
けものの毛
けばだつ毛
けばけばしい毛
けむたい毛
けだるい毛倦怠の毛
けったいな毛奇っ怪な毛軽快な毛
けいはくな経験の毛敬虔な形而上の毛警視庁の警守長の
毛けむりの毛むりな毛むだな毛
けちんぼの毛
げびた毛? カビた毛
おこりっぽいおとこの毛?
ほこりっぽいほとけの毛
ほとけの毛?
のほとりの毛
この詩はa、b、c、d、eまであるのだが、今回はbだけを引用した。
「け」という音に引っ張られるようにして次々に語彙が吐き出されている。通常「もののけ」は毛からは連想されないだろう。「物の気」もしくは「物の怪」である。しかし、ここではその前にある「ももの毛」という音に引きずられて「ものの毛」が出て来る。
「ほとけの毛」の生成も同様に、「おこりっぽいおとこ」という言葉がなければ登場しない筈である。「お」から「ほ」への変換。「おこりっぽいおとこ」→「ほこりっぽいほとこ」→「ほこりっぽいほとけ」という連鎖。「け」という音で支配しているつもりがいつの間にか「け」に支配されている。それで作者も思わず「ほとけの毛?」と言ってしまったのだ。
これは「駄洒落詩」であると言っても良い。しかし、「け」という韻を踏む詩でもある。
◇印 2018年9月30日平成のこり213日
赤松明彦『インド哲学10講』(岩波新書)がかなり面白い。仏教以前の古代インドの思想についてずっと前から興味があったのだが、これほど分かりやすく案内してくれる本は今までになかったように思う。第1講の中で紹介されている『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第六章の言葉を読み、えらく感動した。私が今いちばん気にしている言葉の問題を解くためのヒントが散りばめられているからだ。
《食物は食べられると三つの部分に分かれる。そのものを構成する、最も粗大な要素は糞となる。中間のものは肉となる。最もこまいかいものは思考力(マナス)となる。水は飲まれると三つの部分に分かれる。そのものを構成する、最も粗大な要素は尿となる。中間のものは血となる。最もこまかいものは息(プラーナ)となる。熱は食べられると三つの部分に分かれる。そのものを構成する、最も粗大な要素は骨となる。中間のものは髄となる。最もこまかいものは言葉となる。息子よ、なぜならば、思考力は食物から成り、息は水から成り、言葉は熱からなるからである。 (6・5・1─4)》
この知恵に圧倒される。「思考力・息・言葉」の素についての生命的解釈。食物・水・熱の三要素がさらに三つに分かれ、食物から「糞・肉・思考力」、水から「尿・血・息」、熱から「骨・髄・言葉」が作られていると。説得力がある。人体がどのように構成され、精神活動が何によって支えられているのか、という哲学的思惟がこれほどまでにシンプルに表現されていたとは!
糞と尿と骨について言及できた哲学書は他にあるだろうか? 肉と血と髄について語るのは生物学や生理学の領域であろう。そして、哲学はもっぱら思考力と息と言葉のことばかり論じてきたように見える。
空腹では思考力が出ない。のどが渇いてしまえば息苦しい。体温が維持できなければ言葉にならない。世界を認識し表現するためには生命がその基礎になくてはならない。
台風が列島を北上中である。まるで意思があるかのように24号は日本を狙い撃ちしている。沖縄では県知事選。結果はどうなるか。東京は午後三時までは雨も風もなく休日を台風対策に当てて過ごす。部屋の掃除、洗濯、買物を済ませ。事務仕事をやって、きのうのカレーにコロッケをトッピングしてディナーとする。さあ、準備万端、いつでも来やがれ、台風よ!
こうして2018年平成最後の9月は終わろうとしていた。
あ、川柳の〆切忘れてた!