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2015年の作文・9月

◇親鸞(藤井善信)の場合
 
親鸞について調べている。日本の作家はどうしてこうも親鸞が好きなのか。
小説だけでも、倉田百三、吉川英治、丹羽文雄、津本陽、五木寛之などの作家が書いている。全部読んでみたいがその暇がない。哲学者の梅原猛や宗教学者の山折哲雄などの評伝もある。俳優の三國連太郎はどういうわけか親鸞の映画を一本作っている。思想家の吉本隆明や今村仁司も親鸞に傾倒した。
親鸞は実際よくわからない人物だ。信頼のおける歴史資料が少ない。だから、かえって想像を膨らませる余地が残されているのだろう。その点、イエスに似ている。歴史上いたかどうかはよく分からないけれどあの方は実に偉大な人だったとみなが思い思いに語ることで伝説が多く生み出されていく。
中原中也は15歳の時大分県にある浄土真宗の寺に行かされて念仏を唱えるようになった。宮澤賢治は国柱会(日蓮系の在家団体)に入信するまで浄土真宗の教えに従っていた。賢治のお父さんは真宗の熱心な信者であった。若き日の中也や賢治に多大な影響を与えた親鸞の教えを私もきちんとおさえておきたいと思ったのだ。ちなみに私の母方の祖母はよく念仏を唱えていた。
入り口は二つある。『歎異抄』と『教行信証』。
『教行信証』は親鸞の著作で、『歎異抄』は弟子唯円の作である。
まず光文社古典新訳文庫の『歎異抄』を手にとる。関西弁に現代語訳されているのだがユニークな試みで面白い。訳者の川村湊さんの解説がとても分かりやすかったので引用する。
 
《こうした『歎異抄』の思考形式は、親鸞の主著とされる『教行信証』などから受ける印象とは随分違っている。違っているというより、さまざまな経典や経文から厖大な引用を行うことによって、「専修念仏」の「阿弥陀信仰」を教条的に、学問的に解き明かしてみようとした『教行信証』と、“生きている親鸞”の肉声による説法を記録し、折に触れて、弟子たちとの「対話」のなかで示された親鸞の思想とは、私にとっては小さからぬ乖離を孕んだものである。この二つはその思想の骨格や構造は似ているものの、やはり似て非なるものといわざるをえないところがある。それはまさに親鸞の思想(『教行信証』)と、親鸞の無思想(『歎異抄』)との乖離であり、距離なのである。》(144頁)
 
こう解説してもらわなかったら、余計な道に入って迷子になるところであった。つまり『歎異抄』から入るか『教行信証』から入るかで全く別の親鸞に辿り着いてしまうということだ。このことを踏まえていれば、どちらの入り口を選んでも後戻りがしやすい。
親鸞が好きな人に聞いてみたくなった。あなたはどちらから入りました?
引用を続ける。
 
《蓮如本の『歎異抄』の写本には、その末尾に「流罪目録」というものが付されている。後鳥羽院の時代に、興福寺の僧侶たちが、浄土門の法然たちを、その弟子の間に狼藉があるという理由で告発し、法然以下が、流罪や死刑になったという記事である。/それによると、法然ならびに弟子七人が流罪、また弟子四人は死罪となったという。この流罪組のなかに、親鸞こと藤井善信(ふじいのよしざね)、生年三十五歳がいて、越後の国に流罪となった。親鸞は僧侶から還俗せねばならず、「禿」の字を姓として、愚禿親鸞と名乗るようになったのである。》(147頁)
 
こんにち『歎異抄』を手にとる者は編集者としての蓮如の存在を無視することはできない。極端な例ではあるが、親鸞は蓮如によって創作された人物であるとまで云う人がいるくらいである。ヨハネの弟子イエスが死刑になってのちに伝説化され福音書が成立するという構図と同様に、法然の弟子親鸞が伝説化され『歎異抄』が成立する、と考える人もいる。蓮如はそういう意味で巧みである。弾圧された宗教は爆発的にひろまるという法則。「流罪目録」を付したことの意味がそこにあるとすればだが。
引用する。
 
《だが、そうした伝承の過程も、文書としての性格も違うものを、蓮如という、親鸞の衣鉢を継いだ人物が、現在残されている『歎異抄』というテキストとして、編纂してみせたのである。そういう意味では、『歎異抄』は、親鸞と唯円と蓮如の合作ともいえるものだ。それは決して浄土真宗という宗派、教団の聖典としてではなく伝承されてきた、いわばきわめて私的な文書として、密かに読まれるべきものなのだ。》(153頁)
 
われわれは『歎異抄』を公然と読むしかない。日本人は蓮如の作戦にまんまとひっかかってしまったのだ。
続けて引用する。
 
《『教行信証』の親鸞と、『歎異抄』の思想とは違う。くりかえしていうが、『教行信証』には仏教僧としての親鸞の「思想」があるが、『歎異抄』には親鸞の生き方としての「無思想」があるだけなのだ。これを意識と無意識との対立と考えてもよい。比類のない「非僧非俗」の人間・親鸞の「無思想」と「無意識」を生き生きと表現したものとして、『歎異抄』は、無限の価値を持っているのである。》(同頁)
 
ほんとうにそれほどの価値があるだろうか。
宮澤賢治は、真宗から日蓮仏法へ改宗した。そこには理由がある筈だ。
私の探究はそこに向かうだろう。
 
 
 
◇親鸞という男
 
親鸞は聖人なんかじゃないのに、どうして聖人なんて呼ばれているのか。自分で愚禿と称したんだから、「禿げ」と呼べばいいじゃんか。なんて悪口を言ったりするのは好きじゃないので、ちゃんと何が問題なのかを考えてみよう。私は、法然から始まった「専修念仏」によって日本の民衆は救われたとはどうしても思えない。むしろ、それによって道徳的に頽廃し、民衆の中に無気力が蔓延し、為政者の現実逃避を正当化することにしか役立たなかったと考える。法然が問題なのは、あれだけの学識がありながら仏教の一切の修行を捨ててしまったことだ。そこがいいんじゃん、と浄土宗の人は云うだろう。何もわからない庶民にしてみれば、難解な仏教の法門を聞いても、すぐには理解できない。念仏だけでいいよ、と云われたら嬉しいに決まっている。人は簡単な方が好きだから。レンジもエアコンもテレビも電話も簡単なものが開発され普及する。説明書は読まない。保証書だけはたぶん大切に保管するだろうけれど。「この感じ」が恐い。原発の登場はその延長線上にある。今はスマホという「念仏的なもの」が猛威をふるっている。
阿弥陀如来は存在しない。存在しないものがどうして人を仏にできるのか。極楽浄土はどこにあるのか。だれも行ったことのない場所をどうしてあると言い張るのか。死んだら極楽浄土へ行って修行しよう。だからこっちでは修行しなくていいんだ。こいつは宿題を明日に伸ばす作戦だな。夏休みはあっという間に終わる。二学期が始まって教室に入るのは地獄である。ずるいのだ。難しい法門を捨てさせて、民衆を無知のままにしておいて簡単な道具を渡す。これは慈悲などではない。民衆蔑視の裏返しではないだろうか。
およそ文化には、踏まえなくてはならない形式や規則が必ずある。楽器の演奏にしたって伝統を重んじなければ上達はない。宗教だけは例外ということはないのだ。法然は仏教におけるその伝統とルールを破壊する。架空の阿弥陀仏にすがるだけの方法でいいと信じ込ませようとした。親鸞は、この法然を信じて追従した。親鸞のファンはその純真さがいいと云う。
五木寛之『他力』(講談社文庫)をひらくとこうある。
 
《法然は日本浄土教の祖とされている人ですが、私は宗派のことはあまり意識しません。むしろ親鸞がみずからの師としてすべてを賭け、生涯慕い続けた先達として法然という人を受けとめています》(28頁)
 
親鸞から入った人は実に危険である。親鸞が尊敬した人物だから間違いない、という論理で法然の方も信じてしまう。ここでは法然を疑うという知的作業が停止している。
さらに五木氏は書く。
 
《「わがはからいにあらず」という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。「なるようにしかならない」と思い、さらに、「しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ」と心の中でうなずきます》(38頁)
 
はじめから負けを前提にするのは確かに気楽である。できなくてもしょうがない、という論理を持っていれば自分を正当化できる。それにしても親鸞の「わがはからいにあらず」という言葉はずるい。結果がどうあれ責任はとらないで済んでしまうではないか。五木氏は「他力」は決して無責任ではないと云うが、どこかに逃げ場を作っている。これでは本気で何かをすることがなくなってしまうのではないか。100%の力を発揮することを躊躇させる働きになってしまっているのではないか。無気力のエートスが漂っている。
五木氏は書いている。
 
《しかし、いくら自分を激しく鞭打とうと、何をやってもなかなか長続きしないのが私の生来の性格です。しなければならないこと、したほうが絶対にいいことが自分でわかっていても、それに取りかかることができない。真向法も、ウォーキングも、三日と続きませんでした。生活のすべてに関して投げやりで、きちんと結末まで片づけることが生来苦手なのです》(18頁)
 
もちろん作家だから多くの人の気持を代弁してくれている部分もあるだろう。しかし、五木氏の自己評価のなかに図らずも「念仏的なもの」が現われているように私は思う。
続けてこう書いている。
 
《だめなものはだめ、できないことはできない。個人の努力も善意も、むくわれないときはむくわれない。いや、むしろそのほうが多いのが人間の世界である、と、心の底でひそかに思っているのです》(19頁)
 
心にリミッターがかかっている分、スピードの出しすぎがないから安全運転はできる。しかし、いざ勝負というところで、このリミッターがブレーキに変わってしまうことがあるにちがいない。できないなら初めからやらない方がいい、という消極的な態度を許すことになる。
決定的なのが次である。
 
《露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません》(20頁)
 
この考え方を五木氏は肯定的な意味で発言している。現世での努力や実績は捨ててもいいと考えているのだろうか。念仏だけが価値であるという思想からは必然的にそういう考えが出て来ても仕方がない。あらゆる修行は無価値なのだから。
私は、五木氏が「他力、他力」と叫ぶたびに人間は「無力、無力」と言い包められているような気になる。それが慰めの言葉に聞こえる人は多いのかもしれない。実際、「人間が無力である」という場面は数限りなく存在する。その反省や自覚がかえって自分を楽にしてくれるということも少し分かる。しかし、阿弥陀仏が存在するという前提があればこそ、極楽浄土が存在するという確証があればこそ、「人間無力論」には意味があるわけで、そうした前提が崩れたら、それこそ人間を絶対的な絶望に陥れることになるではないか。阿弥陀仏の力を信じてしまった人々がばかを見たとしたら、少しも笑えないではないか。
はい、残念。極楽浄土はありませんでしたあ。
おい! 親鸞、どうするんだよ、この責任! 
「わがはからいにあらず」
責任者出てこい!
 
 
◇阿弥陀如来に訊く
 
当然のことではあるが、法然から見た親鸞の評価と、親鸞門下から見た法然による親鸞の評価は大きく食い違っている。親鸞門下側からしてみれば、親鸞がいかに法然の教えを深く理解し、正当な継承者であったかを強調したかったのだろうが、それに対して法然門下側は、親鸞なんて知らないよとほとんど相手にしていない。肉食妻帯する破戒僧なんか相手にしたくなかったのだろう。
師の法然が恐れたのは、専修念仏の教えを曲解し余計な諍いを起す弟子が出て教団が弾圧の対象になることであった。比叡山のエリートが、念仏だけで救われるという教えを説きはじめて、それが結果的に迫害を招くということを予測できなかったわけはないだろう。それでも、法然は、臆病なほどに宗教的権威との争いを避けることに苦心した。それでもやはり弾圧は起こってしまう。
佐々木正『法然の思想 親鸞の実践』(青土社)より引用する。
 
《念仏弾圧を巧みに回避してきた法然であったが、後鳥羽上皇が熊野行幸中に、門弟(住蓮・安楽)が念仏の集会(六時念仏会)を開いたとき、たまたま上皇の寵愛する女官二名が、集会に参加、出家するという事態が起きた。/実情は定かではないが、裏で讒言する者がいたらしく、上皇は激怒、「建永の法難(承元ともいう)」という、念仏弾圧事件が起きたのである。弟子の四人が死罪、法然・親鸞を含めて八人が流罪となる、過酷なものだった》(90頁)
 
法然は四国へ、親鸞は越後へそれぞれ流され、その後この師弟が顔を合わせることはなかった。この事実から誰もが想像できることは、物理的に離れたところで親鸞が独自の道を進んだのではないかということだ。赦免後も法然の方は死ぬまで宗教的権威から決して自由でなかったのに比べ、親鸞の方はある意味で野放しの状態にあった。その存在に気がつかなかったのかも知れない。
流罪から五年後に法然が亡くなってからも、念仏停止の弾圧は続く。しかし妻子を連れた親鸞は赦免後の行き先を常陸国にさだめ、布教の拠点を関東としたため邪魔をするものはほとんどなかったと言ってよい。このひっそりとした親鸞の動きがいかなるものであったのかを知る手がかりが少ないため、かえって伝説が多く生み出されたのだろう。
吉本隆明の論究は、こうした師弟の立場の違いをかぎわけながら、親鸞のなかで起こったと思われる「信仰の深化」について推論していく。
吉本隆明『親鸞〈決定版〉』(春秋社)から引用する。
 
《法然の矛盾は、念仏専修の者は〈愚者〉や〈下品・下生〉のものこそ尊いとして入信を誘いながら、「無智の身で、有智の人に抗い」(「制誡」)諍論を仕かけたり、みだりに私説をたてたりしてはならないと「制誡」せざるをえないところにあった。親鸞の思想は、〈知〉の放棄の方法において、もっとはるかに徹底的であったから、法然のような矛盾は生じなかった。そのかわりに親鸞の思想は、浄土宗の本義を越境せざるをえなかったとおもわれる。べつの言葉でいえば、〈念仏〉と〈浄土〉との関係は、ほとんど解体へ紙一重のところまで切り離されたといってよい》(62頁)
 
吉本隆明のように「最後の親鸞」なるものを捏造することができるのも、確証となる歴史的な資料が少ないところに起因する。イエスという男はほんとうはこうだったのではないかとキリスト教から切り離して考えることができた田川建三の一連の仕事同様、信仰のない人間は自由気ままによく喋ると、私の知り合いの学者が言っていたのを思い出す。私も彼らに負けないように自分勝手に言いたい放題喋っておこう。
念仏を唱えて極楽浄土に往ってそこで修行して仏になると言うけれど、極楽浄土でどんな修行をするんですか? 現実の娑婆世界で修行してもダメな人間が極楽ではちゃんと修行できるという保証がどこにあるんですか? 極楽浄土に往って仏に成ってからみなを救済しに娑婆に戻ってくると言うのであれば、こっちにいる我々は黙って見ていればいいのでは? 早く往って戻ってきて下さいよ。その時あなたはどんな姿で戻ってくるのですか? 神ですか? 仏ですか? 釈迦ですか? 阿弥陀ですか? 
親鸞さん、あなたが考える「絶対他力」の論理を突き詰めると、結局、念仏さえも唱えなくていいというところまで行ってしまうとおもうのだがどうだろう。「南無阿弥陀仏」という言葉も人間の自力の産物ではないのか。それを口にするのも自力となるのではないか。念ずるのも自力となるのではないか。待つのも、待たないのも、考えるのも、考えないのも、自力の作用を受けぬものなど何一つないのではないか。
吉本隆明は「最後の親鸞」の終わりに次のように書いている。
 
《ここで親鸞がいやおうなしに表現しているのは、他力往生を本旨とする浄土真宗そのものの解体であり、同時に他宗派の無化である。他宗派と争うなという意味は、念仏のあいだで諍論するな、あらゆる計いは如来の本願の方にあって、じぶんたち人間の方にはただ絶対に自力をたのまない態度しかない、という考え方の延長線上にやってくる。だから、他の宗派をも受け入れよというのではなく、他力の絶対性をさらに解体したため、宗派的信仰そのものを拒否する視点があらわれたのだ、とみるほかはない》(『親鸞〈決定版〉』64頁)
 
これで分かるとおり、法然から親鸞へと受け継がれたと思われる宗教思想が、有り難い救済の物語を構成するのではなく、徹底的な「人間無力論」を構想し、一切の知的営みを捨てさせて、バカになって信じるしかないという絶望へと我々を導いていくということなのだ。私はこのような横暴を許すことができない。しかもそれが仏教だと言い張るのであれば、仏教は強制的に解体されるべきものでしかない。
 
 
◇宗教と性
 
梅原猛『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社)を読む。
梅原氏は仏教大好き人間である。日本仏教に関する多くの著書がある。中学で『歎異抄』を読んで以来、親鸞については調べ尽くしているが、なお四つの謎が残っているとして、この本を書いた。
一、出家の謎 
二、親鸞が法然門下に入門した謎 
三、親鸞の結婚の謎 
四、親鸞の悪の自覚の謎
これらの謎解きを動機として親鸞の思想に深く足を踏み入れるよう読者を誘導するのが梅原氏の狙いである。
しかし、私はこの四つの謎が一つの欲望に根ざしている「迷い」に見える。すなわち、9歳で出家させられて比叡山で戒律に縛られた20年間を送り、法然のもとに逃げてから「女犯の夢告」を受けて妻帯し、運悪く流罪され還俗し、再婚し子どもができ、罪悪感から自らを正当化するための教理を仏典に求めた結果、法然の浄土宗とは異質の宗派が生まれてしまったというお粗末な筋書きである。妻帯を許してくれた唯一の仏教者として法然を師と慕い、この世ではとてもじゃないけど悟れそうもないから極楽浄土へ往生するんだと願い、それを保証する教義が天親の『浄土論』にあり、曇鸞の『浄土論註』にあることを見出し、じぶんを慰めようとした。天親・曇鸞のそれぞれ一字を取れば「天曇」となる。これじゃ曇天みたいでぱっとしない。それで「親鸞」と名乗ることにした。出家に迷い、師匠に迷い、結婚に迷い、悪の自覚に迷い続けた親鸞の90年。
梅原氏の言葉を引用する。
 
《そもそも釈迦が始めた仏教では、出家者は妻を娶ることはもちろん、女性に触れることを固く禁じられていた。仏教においては、女性に対する接し方はたいへん厳しく、そのために多くの戒律が定められた。(中略)このように仏教では、インドでも中国でも、世界のどこの国においても、出家者の結婚は固く禁じられている。公然たる結婚を許すのは、日本の仏教、しかも明治時代に入るまでは浄土真宗だけであった。いったいどうしてこのような性格の仏教が生まれたのか。女人に触れてはならぬという、釈迦以来のもっとも重要な仏教の戒律を否定した浄土真宗は、果たして仏教といえるのであろうか》(37頁)
 
出家したら妻帯するな! 妻帯したいなら家に戻れ!
出家したら肉を食うな! 肉食いたいなら家にいろ!
 
 
◇暁烏敏(あけがらすはや)
 
梅原猛『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社)の中でいちばん重要な指摘は次の箇所である。
 
《「悪人正機」の説は、確かにすでに法然において語られているにしても、そのような説を強く語ったのは、やはり親鸞であろう。ただ 『歎異抄』を中心として展開された近代の浄土真宗史学においては、「悪人正機説」が必要以上に強調されている感がある。特に近代真宗学の開拓者といってよい清沢満之の高弟、暁烏敏は、「悪人正機」と懺悔の説を華々しく語った。/しかしそこで「悪」といわれるもの、罪とされるものは、主として女犯の罪である。あえて妻妾同居をし、老年になり盲目になってもなお若き女性との関係を断つことができなかった暁烏は、身もだえのポーズをとりながら「悪人正機説」を語り、「親鸞聖人のおかげで救われた」と述べた。しかし、そのような女犯の罪は、親鸞のいわんとする「悪」ではない。親鸞の語る「悪」は殺しの悪であり、その最たるものは親殺しの悪であった。》(294頁)
 
暁烏敏の名を私がはじめて知ったのは、宮澤賢治の年譜の中であった。賢治が10歳の時、大沢温泉夏期仏教講習会に参加した賢治が宮澤家親類縁者たちと共に暁烏を囲んで記念撮影をしている。
近代真宗学の影響を受けた宮澤家の宗教的環境のもとで、幼い賢治が何を思ったかを想像することに強い興味をおぼえるのは私だけではあるまい。「じぶんは悪い子、じぶんは悪い子」と自己批判と懺悔を外から求められた子どもがどのような成長を遂げるか。賢治の拭えない「暗さ」の要因をそうした性悪説を強調する真宗の教えに求めることはできる筈。その上で、父親が望む通りの長男になろうとしてなれなかった賢治が、やがて真宗の教義に納得できないものを感じたとしても不思議はない。なぜなら、真宗は「女犯の罪」をも正当化する論理を持っていたのだから。性的に潔癖な賢治である。僧でありながら性欲に勝てず妻妾同居するような事態を賢治がどうして許せるだろう。
賢治は通常、法華経の影響で国柱会への改宗を決めたと考えられている。確かにそれはそうであろう。向学心の強い青年が積極的に思想を摂取していく。その過程で改宗への意思をもった。しかし、真宗の教えに対する不満がもともとあったとしなければ、賢治の改宗と家出という行動のほんとうの意味は見えてこないような気がする。
暁烏敏という僧侶の言動は案外重要である。反面教師として。
 
 
◇今村仁司(いまむらひとし)
 
今村仁司『親鸞と学的精神』(岩波書店)を読む。
いったい何が悲しくて親鸞の『教行信証』を哲学的に意味づけなくてはならなかったのか? 今村仁司の絶筆だと云う。私は90年代にポストモダンの思想を彼が講じていた頃、学生の一人として一年間講義を受けた。講義中はぶつぶつ言っているだけで何を伝えたいのかちっとも分からなかった。自身の著書を紹介しているのだということだけはわかったので、福武書店から出ていた『精神の政治学』や講談社現代新書の『作ると考える』をひらいては必死に理解しようと勉め、講義が終わると駆け寄って質問しようと試みた。ところが彼は面倒くさそうに手であしらってさっさとじぶんの部屋に逃げてしまうのである。学生を心から軽蔑しているという事だけはその態度から読み取ることができた。
今からみると、あの頃は「現代思想」という商品を学生に売りつけて商売を成り立たせているような大人がたくさんいたのだということが分かる。フランスから、ドイツから、アメリカから、新しい思想(?)なるものを仕入れて、それを解説し、それがどれだけ新しい意味を持っているかを強調することだけで本が出せ、それが毎年のように教科書として学生たちに消費される。
私の手元にも本はたくさん残ったが、そこに何が書いてあるのか一つも説明できやしない。今村先生も随分前に亡くなってしまった。最晩年に宗教に手を出すことになるとは誰が予想できただろう。特に、90年代に教えを受けた人々ならそう感じているにちがいない。
今村の親鸞観は、清沢満之を経由する。《私は清沢満之というまたとない案内者を得て迷うことなく親鸞に接近することができたのであった》(4頁)と。それがすでに迷いでなくてなんだというのか。
 
《明治時代には、開国と同時に、西洋、とくにアメリカとロシアから種々のキリスト教分派が流入して、日本の上下人士を魅惑した。なぜ魅惑したのかの理由を検討し、根源から理解することはいまも重要であるが、ひとつにはユダヤ=キリスト教の「超越神」あるいは「一神教」が人々を魅惑したのが、その理由である》(13頁)
 
明治時代にキリスト教が積極的に受容されたことは確かであろう。しかし、それはごく一部の人々にであって、しかも一神教に魅力を感じてのことではなく、大半は欧米人の文化(ファッションや習慣、科学技術など)への関心によるものだったであろう。むしろ多神教(または宗教的雑居)の日本にあっては、一神教を理解させることはきわめて困難だった筈である。
 
《そしてこの超越神的存在は、地域によって種々の呼び名がある(ヤーヴェ/ヤハウエー、ゼウス/デウス、ディウ、ゴット、ゴッド、アートマン/宇宙我、本覚、マナ、ハウ、等々)。日本人が「洗練された」(と舶来信仰よろしく当時の日本人が感じたごとき)キリスト教の信仰に、というよりもその「神学」に魅惑されたのは、日本人が、そして「日本的仏教」がすでにヒンズー化した仏教であり(本覚思想)、すでに「超越神をもつ」仏教に変質して久しく、しかもそれを自覚しないままに生きてきたからである》(同頁)
 
ヒンズー化した仏教? 神道と同化した仏教、または儒教と同化した仏教と云った方がよいのではないか。仏教はもともとバラモン教の中から出てきたようなものだから、わざわざヒンズー化などと形容する必要はない。それに中国経由で伝わってきた大乗仏教を指して「日本的仏教」と呼ぶのであれば、諸々の神はみな仏の家来として位置づけられているだけで、「超越神をもつ」という言い方はできないだろう。神と仏の区別がなければ、仏教が仏教と名乗る意味はない。それに「自覚しないまま生きてきた」のは一体誰のことなのか? 日本人は十分に自覚的に仏教を受容したのではないか。今村式レトリックに誤魔化されてはならない。
 
《仏教化されたはずの日本人は開国と明治のときに「超越神」を受け入れる素地をひそかにすでにつくっていたからこそ、キリスト教神学に「魅惑された」のである(内村鑑三、新島襄、森有礼、徳冨蘆花、熊本バンドの面々など)》(同頁)
 
ほら、やっぱりごく一部の人々じゃんか。
 
《現在に至っても、日本の仏教者のものの考え方は、きわめて超越神的思考を温存しており、自分でも気づかないままにキリスト教化(ヒンズー化)している(西洋のキリスト教的ヒューマニズムに魅惑される理由がそこにある)。清沢満之が直面した精神的事態は、おそらくこのようなものであったといっても過言ではないだろう》(同頁)
 
言い過ぎです。それはあまりにも言い過ぎですよ。キリスト教化とヒンズー化を並べるあたりは完全に血迷っているとしか言いようがない。日本の仏教者の思考が超越神的思考だと云うのであれば、日本にはもっとキリスト教がひろまっていたであろう。日本人は超越神的思考が苦手だから、宗教的にはキリスト教化が進まないのだ。
今村仁司の「一神教」の理解は乏しい。そして日本の仏教についても多く誤解している。現代思想の厖大な知識を持っていても、結局こういうことになってしまうのだ。実に残念であるが、せっかくだから彼の最後の講義を読み通そうと思う。反面教師として。
 
 
◇清沢満之(きよざわまんし)
 
岩波文庫の『清沢満之集』を読む。
1863年6月26日から1903年6月6日までの40年の清沢満之の人生は不遇であった。絶筆となった「我は此の如く如来を信ず(我信念)」と題する文章には次のようにある。
 
《私の信念には、私の一切のことに就て、私の自力の無功なることを信ずる、と云う点があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を尽して其頭の挙げようのない様になる、と云うことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました》(16頁)
 
清沢は、はじめから自力を捨てたわけではない。自力でいろいろ試行錯誤したうえで、結局どうにもならなかった。それで自力が無功であることを知った。しかし、それを信念とするのはおかしい。経験的に「知る」ことは「信じる」ことではない。
 
《何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我にはナンニモ分らない、となりた処で、一切の事を挙げて悉く之を如来に信頼する、と云うことになりたのが、私の信念の一大要点であります》(17頁)
 
ソクラテスの影響がある。おのれの無知を知るソクラテスこそが誰よりも誠実な智慧者である。『歎異抄』の影響もある。念仏以外は知らないよと云う親鸞の気取り。それにしても、「何も知らない」という言い逃れほどずるいものはない。それが仏の悟りだとするなら、仏とはなんと無責任な存在だろう。
 
《私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である》(17頁)
 
善悪も真偽もわからぬ者にどうして如来だけはわかるのか? ここに大きな矛盾がある。
 
《無限大悲の如来は、如何にして私に此平安を得せしめたまうか。外ではない、一切の責任を引受けてくださることによりて私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も障りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私は只、自分の気の向う所、心の欲する所に順うて之を行うて差支はない。其行いが過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することは入らない。如来は、私の一切の行為に就て責任を負うて下さるることである》
 
実に危険な思想である。如来を讃えているようであって人間を軽蔑している。いとも簡単に日常の善悪を超えてしまう。犯罪者が上のような論理をもってしまったら市民生活は脅かされ続けることになるだろう。私が〈念仏的なるもの〉を危険視するのは、このように、誰も注意できなくなる論理の飛躍が「南無阿弥陀仏」の中に内包されているからである。
何が悪で何が善かをきちんと理解するのが大人の責任であり、それを子どもたちに理解させる教育があって市民社会は正常に機能していく。宗教がそれを根底で支えていかなくてどうするのか。
 
 
◇親鸞の迷路
 
親鸞に関する文献に接して誰もが感じることは、結局何が言いたいのかがわからないということだ。その原因はひとえに親鸞自身がまことに混乱した思想の持主であったことによる。主著の『教行信証』がただ迷いの痕跡を示すだけのものであり、それを読解しようとすれば、読者をして混乱の渦の中に巻き込んでしまう。たとえば、山折哲雄『『教行信証』を読む 親鸞の世界へ』(岩波新書)には次のようにある。
 
《もう30年も昔のことになるが、大学院のゼミのテキストにこの『教行信証』を選び、数人の学生諸君と二年間悪戦苦闘したことを思いおこす。結局は迷路に追いこんでいくだけの二年間だったが、「教行信証」という言葉がどのようなことを意味するのか皆目見当がつかなかったことだけはよく覚えている》(46頁)
 
そして30年後に書かれた新書の「はしがき」に著者は次のように記す。
 
《いつごろだったろうか。ある放送局で「題名のない音楽会」という番組を放映しているのを見ていて、ああ、と思った。あれを親鸞はやったのか、とひらめいたのである。そういえば、たしか「未完成交響曲」というシンフォニーもあったではないか。あの伝でやったのか、と想像の翼がさらに広がっていった/そのうち、教、行、信、証という文字記号は、表面的にみるとたしかに目次仕立ての表記にすぎないようにみえる。けれども親鸞は、それで良しと、みずから肯んずるような気持ちになったのではないか。第一章──教、第二章──行……といった章立ての表記でいく、ということだ。そう気がついたとき、親鸞は目次仕立ての表記で「書名」に代えようと覚悟をきめたのではないか》
 
まるで寝言のような憶測である。でもしょうがないのだ。こういう憶測でしか親鸞は語れないからだ。
そして山折氏の結論はあまりにも悲しい。
 
《私は本書をしめくくるにあたって、『教行信証』というテキストは、親鸞にあっては未だ変貌をとげつづける「未完の作品」であるだろうと書いた。親鸞という人間もまた、その意味において「人生の途上」にあるほかはなかったのだと言ったのであるが、それでは親鸞はこのあとどのような次の世界にむけて足を運んでいったのだろうか。私の目には、とぼとぼと歩きつづけることをやめない老親鸞の行く先に、ほんのかすかに「自然法爾」の光が静かにともっているのがみえている》(240頁)
 
240頁にわたる新書一冊を使った迷路の先に、「自然法爾」の光がかすかに燈っているという。それがゴールか? 悲しすぎるではないか。それが仏教の結論か? お釈迦様のあいた口がふさがらないぞ。ある講演で吉本隆明が「自然法爾」を説明しながら次のように言っている。
 
《しかし、いってみれば親鸞は、解答をしているようでほんとうはなにも解答していないのとおなじではないかともいえましょう。つまり信じられる人には信じられているということだけで、信じられない人のところには光明が射してこないということですから。いまどきどうしてこんなことが信じられるのかということにたいする解答はしていないこととおなじなはずです》(『未来の親鸞』(春秋社)34頁)
 
ことの本質をぴたりと言い当てておりますな。吉本氏が講演の締めくくりに、
 
《そういうことをかんがえてなんども親鸞について書いたり、しゃべったりしてきましたが、まだ汲みつくせない不満がのこるということをくり返しています。本日の親鸞論もおもしろくないなあという気がしています。これはもうじぶんの至らなさとかんがえればしかたないことで、また何べんも挑戦してみたいとおもいます》
 
って、吉本さんはもう亡くなってしまったから、今更だけど、もうおよしなさいと言ってあげられればよかった。
 
 
◇向こう岸に何かがある
 
生きていると、こちらにはもう何もなくて、向こう側に希望を託したくなるような時が何度も訪れる。この時、人はじぶんを抜け出して何か別のものになりたいと望んでいる。じぶんは無力で、価値がなくて、人に渡せるものや誉めてもらえるようなもの、そして意味あるものなど、こちらには全然ないのだと思っている。救いは、向こう岸にある。向こう岸にしかない。現実逃避は、そんな人間にとって、とても重要な防衛手段である。
ではなぜ逃げ出したくなるのか。それは、人間があまりにも長く意味の網のなかで過ごし、指示、命令に従わなくてはならない日々を送っているからだ。
言語は、指示や命令だけの使用に限定されるわけではない。しかし、催促や要望などの一見遠まわしな表現でも、還元すると結局それはじぶんを動かす命令と同じ作用を持つ。ふとんの上で目が覚めてから再びふとんにもぐるまで、我々は実に多様な指示を受け、複雑な命令に従って行為する。しかも外からも中からも、命令は飛んでくる。こういう現実にすっかり疲れてしまって、夢の中に逃げ場を求めたり、空想の中に安らぎを求めたり、妄想にふけることでバランスを保とうとしたりするのである。
生命体は、DNAからはじまって社会の動きに至るまで、指示・命令に支えられている。我々ひとりひとりが食事をとり、睡眠をとり、生殖活動するのも、欲求という内的な命令に動かされてのことである。その欲求が利己的な遺伝子の働きによるものなのか、それとも外界からの圧力(習慣や倫理的な抑圧など)によるものなのか、それは知らない。神の指示で動いていると自覚している人も、内発的な良心の声に耳を傾けているのだと信じている人も、結局その人の行為の背後には、必ず指示・命令が存在するということだ。
したがって現実逃避とは、こうした一切の指示・命令から自由になりたいという願望の表われであると言える。
しかし、生命体である以上、原理的にそれは不可能である。ゆえに、人は時々生命体であることをやめたいと願う。自殺という手段を使って、それを実現しようとする。しかし、死んだからといって指示・命令から自由になれるという保証はどこにもない。
そこで代替行為として、文学的営為が生ずる。詩は、指示・命令の言語使用とは対極に存在する。人に何も指示せず命令せず、意味の網をすり抜ける透明な言語行為。詩を書いたり、読んだりする人間は、意識するとしないに関わりなく、現実を逃避する時間の中へ入っていく。ナンセンスや論理の飛躍や隠喩や倒置などが許されるのはそのためだ。詩のなかではいとも簡単に時空が超えられる。永遠が語られ、無限が飛び交っている。原始時代や、一万年後の未来にタイムスリップして、きょとんとしている。
我々は普通、言葉は現実を掴み取るために存在すると考えている。しかし、詩の世界ではその反対のことが起こっている。現実離れした場所へ、言葉が言葉としてしか活躍しない非日常へ、詩は人間を誘い出そうと躍起になる。そして、その相対化の働きが巧みであればあるほど、詩は拍手喝采を浴びることになる。
この世に、詩集が多く残されている理由は、人間の弱さを肯定するためなのかも知れない。詩集を手にした者は、ほっとするのだ。現実から逃げ出したことを正当化するために、詩集のページには多くの余白が用意されている。
 
 
◇断章(ツイートより)
 
生活のなかで得られた実感はほんとうに言葉になるのだろうか。とくに感情表現、それを言葉に置き換えられるのか。言葉に対する不審。知を経由しない情は言葉にならないのではないか。言葉になった情は冷めたスープなのではないか。
 
言葉から私は意味を汲み取ることができる。しかし心を汲み取ることができない。そういう病があるかもしれない。
 
言葉とずっと付き合っているから時々言葉からうんと離れてみたくなることがある。
 
言葉をいちばん必要としない場所。筋肉? 心臓? 髪の毛? 肌? いやいや、案外脳の中にいちばん安住できる秘密の場所があるかもしれない。
 
言語を指示・命令だけの使用に限定したら社会はどうなるだろう。一年もたないのではないか。
 
ことばの二面性。具象絵画と抽象絵画の類推で考える。食べ物としての林檎と象徴としての林檎。おなじ「りんご」という記号が全く別の方向を示す。現実を捉えようとすることばと現実を超越しようとすることば。
 
「カミ」ということば。それが「火水」を指せば具象へ向い、「神」を指せば抽象へ向う。
 
意味の網。意味の網を破る方向へいくか、それとも意味の網を基底で支える方向でいくか、それは思想の大きな分かれ道である。
 
以上がツイートした最近のつぶやきである。「意味の網」という言葉を突然思いついた。「イミノアミ」という音がいい。網はネットであるから、意味のネットでもいいのだが、やっぱり「意味の網」だな。言葉の意味はまた言葉で記されている。それが連鎖して網のように繋がっていて、我々はその網にからめ取られているというイメージ。インターネットというものがさらに輪をかけて我々を意味と意味の連鎖で複雑にからめとる。そこから容易には抜け出せないようになっている。それは日本語であろうと英語であろうと、言語に関係なく。意味から逃れるすべがない。しかし、それにがまんがならない種類の人々も確かに存在するわけで、ダダやシュールレアリスムはその先駆であろう。モダニズムの詩人たちもそうかもしれない。意味から離れたい言葉たちを救済する場所としての詩の世界。それは原理的に実現不可能なのだ。意味の網は手強いぞ。
 
 
◇神学
 
神は存在するかと問う。神はどう答えるか。「わたしは存在しない」と答えたとしよう。その場合、神は「わたしは存在しない」と云うことでその存在を証明してしまう。
 
逆に、「わたしは存在する」と答えたとしよう。その場合、神はその存在を二重に肯定していることになる。つまりくどい。
 
したがって神はこの二つの答え方を選ばないだろう。神が選ぶ最善の答え方は沈黙である。黙っていることで、「存在している」と云わずに済むし、「存在しない」のでもないことを示すことができるからだ。
 
ところで、沈黙はともすると「ほらやっぱりいないじゃん」と早合点されかねない。質問にはちゃんと言葉で答えなくてはならないというのがルールだとすれば、無言では話にならない。しかし、「沈黙=無」と考えるのは誤りである。
 
ためしに「これは無か?」と世界に向って叫んでみよ。無なら何も答えは返ってこないだろう。しかし、まさにそのことが無を雄弁に物語る。つまり「ああこれが無だよ」と云っているようなものなのだから。無は沈黙によってその存在を証明することができるのだ。
 
これに比べて存在はやっかいである。存在は何かを語ってもまた黙っていても常に疑われる宿命にあるからだ。
 
沈黙に対するリアクションの違いが宗教の違いを生む。
 
沈黙を異常に恐れる者は預言者を必要とする。存在が黙っていることに耐えられないのだ。『出エジプト記』にはこう記されている。《神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と》
 
これは逆から考えた方がよい。イスラエル人は沈黙に耐えられず預言者を遣わして神からの言葉を要請した。そして、三重の肯定で神の存在を語らせた。
 
三重の肯定の次第は以下の通り。第一に声を発することで存在を証し、第二に「わたしは~である。」と名なることで存在を証し、第三にその名が『わたしはある。』というダメ押しで存在を証す。「ある」を三回重ねなければならないほど、沈黙に対する人間の疑いは深かったのだ。
 
犯人が「俺はやってない」「俺はやってないんだ」「俺は絶対やってない」と三回重ねる心理。
 
沈黙を沈黙のままで受け止めようとすると、ブッダの態度になる。
 
沈黙に耐えられる者は存在が何かを語ることを期待しない。むしろ、声を出すのはこちらの側である。その声は言葉になっていなくてもよい。たとえば「あ!」
 
沈黙に有を感じた時に「あ!」。沈黙に無を感じた時に「うん!」。いずれにしても声を出せればよい。
 
試しに大空に向って大声で叫んでみよ。世界があろうとなかろうと声は確かに響き渡る。その時わたしは存在を生きる。
 
わたしはある!
 
 
◇他力の誘惑に負けそうになる
 
自分の力だけで何とかしようとする人を日本人はあまり好まない。それを傲慢だと評したり、器量が狭いと言ったりして、マイナスの評価を下す。それよりも協調性があり、チームワークがうまくできる人が好まれる。どんどん人に頼って、自分だけでは動かない人が可愛がられる。この傾向性は他力を説く宗教と馴染みやすい。法然の念仏が爆発的に日本に広がったのにはいくつかの理由があるだろう。その一つが「おかげさん」の精神性であるのはまちがいない。
ことが成就するのはじぶんの能力や努力の結果ではなく、ぜんぶ他の協力のおかげであるという精神。この気持ちが維持できない人間とはおよそ付き合いたくないというのが日本人の人情の大部分を占めているのではないか。
親鸞の絶対他力は、成仏はぜんぶ阿弥陀如来の力によっているという思想である。この境地に至るには、いくら努力しても人間は自力で仏になんかなれないんだ、という積極的な捨ての態度を要する。この誘惑に日本人は勝てない。潔く自立を捨てて他者に依存しなさい。楽だよ。そうだよな。わざわざ苦労しなくても。そういう妥協を正当化する仕組みが日本的連帯を構成する。
 

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