「娘の病気を告げられた日のこと」 娘と私のプロフィール
noteを始めて2週間が経ちました。
膨大な、とても良質な作品や物語に触れて、大好きな本を読むことも忘れて、投稿された数々の作品を読みふける数日間。
もっと早く、こんな世界を知りたかったなと思うほど。
その中で見つけた数々のプロフィールを読み、私も自己紹介をきちんとしておきたいと思いました。
私は地方で暮らす、3人の子の母親です。二女が重度の心身障害児で、私の人生の半分は、二女の病気と向き合う日々でした。
ここに、次女に重い障害があると告知された日のこと、そして、現在の彼女の様子を書いてみようと思います。
私のプロフィールとして。
※※※
24年前の私へ会いにいく
何年ぶりだろう、ゆうの育児日記を開くのは。
びっしりと私の想いが書かれた、娘への愛と謝罪のような日記帳。
見返すことができないまま、20年以上も、ゆうのへその緒と一緒に和ダンスの奥に入れっぱなしだった。
私の二女のゆうは、現在、24歳。
重い病気を持って生まれてきた。
生後6ヶ月でその病気がわかったとき、私は自分のこれからの人生を、すべて娘に捧げようと思った。
毎日泣いた。
外に出るのも嫌だった。
あの頃の、人生でいちばん泣き虫だった私に、会ってみたくなった。
日記を全くつけない私が、ゆうが生まれた日からの1年間、1日も欠かさず日記を書いていたことには、ちょっと驚いた。
懐かしい日記帳を開くと、ところどころ、かわいいゆうの写真も貼ってある。
娘への愛情が溢れていて、できたこと、好きなもの、喜びもちゃんといっぱい書いてある。
よかった、思っていたよりも私は育児を楽しめていた。
ただ、病気を告知されてからの数ヶ月は、1日分を記入する枠から文字がはみ出して、余白の部分も、挿絵の上も、小さな文字で真っ黒だ。
「ゆう、ごめんね」の文字ばかりが並ぶ。
病んでいたんだな、私。
24年前の私を抱きしめる。
告知の日の朝
真夏にしては涼しい風が吹いていた。
その日の朝も、生後6ヶ月のゆうを連れて、3歳年上の長女を保育園まで送る。
私の肩にちょこんと頭をのせながら、縦に抱っこされているゆうは、私の耳の横で「あー、あー」とご機嫌におしゃべりしていた。
「あらら、ゆうちゃん、また寝てるのね。」
仕事へ向かうママ友たちは、小走りで私に笑顔を向ける。
作り笑顔で「うん」と応える私。
首をあげることができず、私にぺったりとくっついて脱力しているゆうは、誰が見ても寝ているとしか思えないのだ。
「ゆうは寝てないんだけどな。もうそろそろ、ごまかせなくなってきたな」
家に帰ったとたん、涙が出た。
朝ご飯の片付けも、中途半端なままの洗濯物も、どうでもよくなった。
玄関先で、ゆらゆらと体を揺らしながらゆうを抱っこしていると、ゆうは私の腕の中で眠ってしまった。
ベッドにそっと寝かせる。
すやすや眠るゆうは、「ふつう」にしか見えないのに。
私は庭へ出た。
昨夜の、市立総合病院の小児科部長O先生からの電話がずっと頭から離れない。
「電話では、お話しできない難病です。旦那さんも一緒に、明日病院に来てください。」
やっぱり、ただ事ではないのか。
生まれてからずっと、ゆうの成長は、長女のときと「なにか違う」と感じてきた。
おっぱいをうまく飲めない。
うつぶせても頭があがらない。
目の焦点が合わない。
身体がグニャっとして、力が入らない。
首が、いつまでたっても座らない。
気のせいだと言い聞かせた4か月間。
うつぶせの練習ばかりを繰り返した4カ月間。
祈りは通じず、4カ月検診で発達の異常を指摘された。
なにかの障害があるのかもしれない。
でも、成長が遅いだけで、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせながら、街で一番大きな市立の総合病院へ娘を連れて行った。
小児科の診察室で、娘の動きを診ながらしきりに首をかしげるO先生の様子を見ても、私は泣かなかった。
「精密検査をしてみましょう」と先生から言われて、娘にたくさんの検査を受けさせた日も、私は泣かなかった。
でも、昨日のO先生からの電話で、我慢していたものが壊れた。
庭に出た私は、泣きながら、庭の草を抜いた。
泣いても泣いても、泣けてきて、着ていた黒いTシャツの袖は、化粧と涙で変色し、私の心のなかみたいな色になっていた。
隣の奥さんが、ゆうと同じ年の娘さんを抱っこしながら庭に出てきて、私の泣き顔を見て驚いていた。
私の話を聞いた彼女は、そのまま黙って一緒に泣いてくれた。
告知の時
小児科の診察は午後からだった。
かろうじて洗濯物を干し終えたときに、夫が仕事から帰ってきた。
私たちは「治るものなら、何としても治してあげたいね。」と、昨夜も話していたことを、また何度も繰り返しながら病院へ向かった。
O先生から言われた病名に、私たち夫婦は固まる。
「先天性福山型筋ジストロフィー」
筋肉が少しずつ壊れていく難病で、現在は治療法がない。
筋ジストロフィー?
なぜ、私たちの子どもが?
告知された直後、娘を診察台の上に、オムツだけにして寝かすように、O先生から言われる。
オムツ姿の小さな娘のまわりを、若い研修医のような白衣の男性たちが取り囲んでいた。
「めずらしい疾患だから、硬く繊維化したふくらはぎとか、触っておくといいよ」とO先生が研修医に話している声が、遠くなって行く感覚だった。
「何を言っているんだろう、この先生は。告知の日に、それはないだろう。娘に触らないで。」と、心が悲鳴をあげる。
誰にぶつけていいかわからない怒りのような悲しみを、O先生に向けてしまっていた。
O先生は、その後、ゆうの主治医としてお世話になった、とてもやさしいおじいちゃん先生だ。
研修医の勉強のためには当たり前のことだったんだろうと、冷静な私ならそう思う。
むしろ、小児に関わってくれる医師を増やすためにはとても大切なこと。
でも、この日は私たち家族の特別な日。
人生が変わるくらいの。
胸を刀で刺されるくらいの。
だからちょっとだけ、配慮してほしかった。
「これ、昨日、僕も勉強してみたんですが、医学書のコピーです。この病気のお子さんに会うのは、僕も初めてなんでね。これで、親御さんも勉強してください。風邪でも肺炎になるほど、感染に弱いお子さんなので、お母さんは仕事を辞めて、家の中で娘さんを大事に育ててあげてください」
夫は立ち尽くしたまま、O先生からコピーを受け取った。
パラパラ見ていた夫の顔色が突然変わる。
目が真っ赤だ。
「平均寿命20歳」
私もその文字に目が留まる。
しゃがみこむ私に看護師が駆け寄り、「一緒に頑張っていこうね、お母さん」と、泣きながら私の背中をさすってくれた。
病院を出ると、外はどしゃ降り。干しっぱなしの洗濯物は、隣の奥さんがちゃんと守ってくれていた。
あの日のことは、まるで映画で何度も見たシーンのように、しっかりとその場面が頭に残っている。
私に起きたことなのに、私の表情までが鮮明に見える。
現在のゆう
私たちは娘を家の中に閉じ込めるような生活をしなかった。
全くその逆。
どんどん外へ連れ出した。
病気が進み、出られなくなる日までは、どんどん出る。
何でも経験させる。
ゆうにも、いっぱいこの世界を見せ、触り、出会ってほしかった。
それでも、病気は残酷なまでに娘から自由を奪った。
ゆうの病気は、告知の日にもらった「医学書のコピー」通りに進んでいく。
医師による診断書や、意見書を見てみると、現在の娘の状態は、上記のように書かれてる。
(ただし、個人差があるので、同じ疾患の人がみな、娘と同じではない。)
24歳の誕生日を無事にお祝いできた。
一番恐れてきた「成人する年齢」も乗り越え、今も元気に私のそばにいてくれる。
医療の発達と、娘の強さに心から感謝。
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娘は、夫に似てポジティブな性格で、「できなくなること」を「新しい楽しみを見つけること」にかえて、進化してきた人です。
それがありがたくて、だから娘に申し訳なくなります。
人が好きで、笑いの場が好きで、イケメンが好きな、ごく普通の24歳の女性。
動けない足は、いつも走りまわり
話せない声は、いつもおしゃべりし
食べられない口は、いつも味わい
見えない目で、やさしい世界を見て
触れられない手で、いつも好きな人を抱きしめている
彼女の全身で、ごく普通を生きている。
そう思っています。
優しい人に出会い、温かい手に支えられてここまで来ました。
娘と生きてきた日々は、灰色のような暗い世界ではなく、明るくやわらかいオレンジ色の世界でした。
育児日記の最後のページに、私が娘にあてたメッセージがありました。
日記の中の私に、「大丈夫、いつも笑顔たちのまん中で、ゆうは生きていけるからね」と言ってやりたいです。
2年前からエッセイを書き始めたのも、noteを始めようと思ったことも、ゆうの人生が悲しいことだけではなかったという事実を残したいと思ったから。
娘の人生は、和タンスの奥にしまいたくないと思ったから。
1日のほとんどを、リビングのベッドで過ごすゆうに、これからも素敵な出会いがたくさん訪れることを願いつつ、ゆうの隣でエッセイを書いていきたいと思います。
以上が、二女と私のプロフィールです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
筋ジストロフィーという病気の治療法が、一日も早くみつかりますように。