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母を誘って、近所の喫茶店へ

静かにしのぶ時間が持てないほど、父の葬儀からその後もさまざまな手続きや雑用に追われていた。

母も目まぐるしく多忙な日々のなかで、決めることや終えることに気持ちを奪われているように思えた。
心に穴が空いたような気持ちのまま、それでも皆が日常に戻っていく。

「母さん、お茶しに行こうか。」

二女も10日ぶりに施設へ行けた。
私にも1時間ちょっと、自由に動ける時間ができたので、母と書類を見る時間ではなくてお茶をする時間にてることにした。

父が、そうしてやってくれ、と言っているように思えたからだ。


実家の近くにある喫茶店は、たまに父と母がモーニングに出かける行きつけの店だった。
私も一緒にお茶をしながら、時々父や母とおしゃべりをした店で、天井が高くて木の温もりを感じる静かな場所だ。

流行病や父の病気もあり、両親も3年ほどは全く行っていなかったようだ。
「久しぶりやわ。」と母が店の入り口でにっこりした。

青空でした


チョコレート色の木の扉を開けたとたん、珈琲の香りに包まれた。東側と南側の大きな窓からは春の光が差し込んでいた。
日当たりの良い1番奥の席に、母と向かい合わせで腰掛ける。

母はモーニングセットで、お気に入りのエッグトーストを注文した。
私はワッフルを頼む。
しばらくして、珈琲と一緒に10時のおやつのような軽食たちが運ばれてきた。

母が珈琲をひとくち飲んで、

「あぁ、美味しい。珈琲は久しぶりやわ。」

と言った。この数ヶ月ずっと、珈琲をゆっくり飲む気持ちになれなかったらしい。

ベッド生活になってから、時々父は「気晴らしに2人で珈琲でも飲んでこい」と言ってくれていたが、寝たきりになった父を置いて行くのは気が引けて、私も母も父の横で一緒にお茶をするようにしていた。
父のいた部屋も、私にはなかなか落ち着く喫茶店だった。


エッグトーストを頬張りながら、母が申し訳なさそうに私に言った。

私って薄情なんやろか。お父さんを介護してるのにデブっちゃって。」

少ししか食べられなくなった父が、母に「俺のとこからちょっと取って、お前が食べてくれ」といつも言っていたらしい。母はそれを残さずに食べていた。
「せっかく作ってくれたのに悪いなぁ」って謝る父が気に病まなくても済むように、母が全部食べていたのだ。

父の罪悪感や食べられない苦しみを、母が飲み込んでいたんだ、と思った。

さらに父が眠っている間も、少しホッとしてテレビを観ながら、ついつい甘いものも食べていたらしい。
疲れと不安と不自由、そんな強いストレスをずっと抱えていたんだろう。

「あれだけ父の好物ばかり毎日作ってきたんだから、全然薄情じゃないよ。介護は大変だからね。食べて元気でいられたんだから、よかったんじゃない?」

そんな私の言葉に少し安心した顔をしたが、またさらにこう続けた。

でもやっぱり私は薄情やわ。このところ朝までぐっすり眠れてしまうんやから。」

母は、悲しくて眠れなくなる自分を想像していたようだった。何ヶ月もずっと、夜中も父の世話をしてきてあまり眠れていなかったんだから、無理もないのに。

こうやってお茶していることも、母はまた薄情だと気にしてしまうかもしれない、と思った。

「母さん、身体がかなり疲れていたんやね。」と言ってから、最期まで家で母と過ごすことができて父が幸せだったことや、こうやってお茶していることを父も喜んでいることを話した。

私には母が、小さい頃からずっと常に強くて怖い存在だった。でも今は、母を心細い少女のように思えた。

母はやっと柔らかく笑って、それからは饒舌に父のことを話し始めた。
ラジオのように。
そしてそれは、母の口から私が初めてちゃんと聞いた、父への母のラブレターだった。
小さな口喧嘩ばかりしていたけれど、母は父が大好きだったんだな、と思う。

父の頑張りや母の頑張りを噛みしめるように、私は黙って母の気持ちを聞いていた。

久しぶりに、珈琲が美味しい、と思った。


支払いをしようとしたら、母がピンクの古い珈琲チケットを出して「これ、まだ使えますか?」と店の人に見せた。
ずいぶん前に父が買ったものだ。
まだ使えたので、チケットを2枚ちぎって渡した。

結局、父にお茶をご馳走してもらった。


帰り際に母が

「あぁ、楽しかったわ。」

と言ったので、私はなんだか父に褒められているような気持ちになった。


父さん、珈琲と母のノロケ話を、ごちそうさまでした。

雲ひとつない晴天



*****

久しぶりにnoteに戻り、やっと書いてみたい気持ちになりました。

前回の投稿では、あたたかいお気持ちを寄せていただきありがとうございました。
スキやコメントに込められた想いに、ずいぶん励まされました。
心から感謝申し上げます。

父も空から笑っていると思います。



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