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漫画家を目指していた私の小学生時代

学級文庫って、小学校に今でもあるのかな。

唇の両端に両手の人差し指を入れてちょっと引っ張りながら「学級文庫」って言ってみる遊び、昔は流行ったんだけど、今の子たちもやるのかな。

いきなりお行儀が悪くて、失礼しました。
そんなお茶目で昭和な話はさておき…


私は昔、自分の作品たちで冊子を作ったことがある。
と言っても、それは拙い手書きの漫画を冊子にしたものだ。

あれは私が小学6年生の頃のこと。

私と親友は漫画雑誌を作り、その冊子を学級文庫に置かせてもらった。

そんな懐かしい話を思い出したのは、文学フリマに行って、自作の素敵な作品たちに触れたからかもしれない。



*****

ずっと相棒だった私の親友は「ゆみちゃん」といい、彼女はカリスマ性があって何でも器用にできる子だった。


毎日毎日、ソフトボールに明け暮れながらも、私とゆみちゃんは違うプロジェクトにも夢中になっていた。

当時のゆみちゃんは漫画家志望で、藤子不二雄先生を神のように仰ぎ、ノートによく漫画を描いていた。

彼女が描く漫画は、目の中にキラキラの星があるような少女マンガではなく、完全なギャグ漫画だ。


ある日、ゆみちゃんが雑誌を作りたい!と言い出した。
2人で雑誌を作ろうよ!と、ちょっと意味がわからない提案をされて、私はびっくりした。

私は絵心が全く無くて、イラストは大の苦手だ。

だけど、ゆみちゃんの強気な誘いに負けて、流れで自分まで漫画を描くことになってしまった。

大好きなゆみちゃんにNOと言えない小学生だった私は、宿題より難しい課題を与えられ、悩みに悩んだ。

絵は下手くそだし、話も全く浮かばない。
特に人物の手足を描くのが難しい。

「慌てて走っているみたいな絵は、足をうずまきにしたらいいよ!」

このナイスなゆみちゃんのアドバイスで、私の描いた人物の足はほとんどうずまきになっている。

ゆみちゃんのようにサクサクとは書けなくて、おそらくゆみちゃんの作品32に対して私は3、くらいの数の比で雑誌を作ったような記憶がある。

作品と言っても、見開き2ページくらいの短いギャグ漫画ばかりで、私の覚えている自分の作品名はひとつだけだ。

「へんたいはかせ」

漢字で書くと、変態博士。
(なんともダメダメなネーミングですが、昭和の子には当たり前でした。)

頭がボサボサでくるくるメガネ、そんな白衣を着た博士がおかしな実験を走りながらする、という中身がペラペラの作品だった。

(一応補足しますが、バック・トゥ・ザ・フューチャーはこの後、1985年に公開されます。誤解のありませんように笑)


破ったノートを束ねてホッチキスで留めた手作り雑誌は、私とゆみちゃんにとっては、かなり完成度の高いものに思えた。

2人で作った漫画雑誌のタイトルは

「少年少女コスモス」

まぁまぁわりと、ふつうのネーミング。
何かしらのパクリ風の名前だし。

でも当時の私たちは、真剣にイケてると思っていた。

そうして出来上がった大事な雑誌をどうするか、悩んだ私たちは、担任の先生に頼んで学級文庫に置かせてもらうことにしたのだ。

めずらしかったので、最初はクラスメイトに人気があり、みんなが取りあって読んでくれて「おもしろい!」とか「すごい!」とか言ってくれた。

それに気を良くした私たちは、将来漫画家になろうと2人で決意してしまう。

手っ取り早く漫画家になる方法を、真剣に小学生の頭で考えた。
なんなら、今すぐデビューしたいくらいの気持ちだった。

当然のように、目指すのは「藤子不二雄大先生」だ。

そこで私たちは、藤子不二雄先生に作品を送ることを思いついた。うまくいけば弟子になれる、とちょっと思っていた。

ドラえもんが掲載されていた雑誌には、当時、藤子不二雄先生にファンレターが送れるように、事務所の住所が書かれていた。

自分たちの作品をひとつずつと先生宛の手紙を入れ、それぞれの住所を書いてそこへ送ってみることにしたのだ。


手紙を送ったのは暑い季節だった。それからしばらく間が空いて、季節は冬になっていた。

少し忘れかけていた私たちの熱い思いは、先生にちゃんと届いていた。

私とゆみちゃんそれぞれ宛に、藤子不二雄先生から年賀状が届いたのだ!

テッテレテッテ、テッテレテッテ、テッテッテッテッテー!

ジャーーーン‼︎

実物です。私、物持ちがよくて…。
40年以上も前の年賀状を大事に残しております!



おそらく(願わくば)直筆でメッセージが書かれていて、2人して舞い上がった。

「今年もよろしく!」って!

よろしくって、どうよぉ!
もちろん、よろしくしたーい!

やっぱり、藤子不二雄先生はやっさっしーい!
神!神!
さすが、ドラえもーーーん!

めちゃくちゃ感激した私は、それを学習机の上に敷いてあるビニール製の挟むやつに大事に挟んで、時々眺めて喜んだ。

しかし実は、年賀状が届いた頃には漫画家熱がすっかり冷めていて、私たちは歌手を目指して作詞作曲を始めていた。

ある意味恥ずかしい歌詞たちも、ある意味一本調子のメロディたちも、今でもちゃんと、忘れずに私の頭の中だけで再生可能な状態だ。

たしか、デビュー曲として考えていた歌の題名は「ケモジャピピ」、だったよね、ゆみちゃん!
(ケモジャピピとは、通学途中でいつも挨拶してくれるすっごいお髭のおっちゃんで、優しい笑顔が私たちは大好きでした。)

年賀状をきっかけに漫画家への夢がまた膨らんできた私たちは、その後は「歌って踊れる漫画家」を目指すことになる。

お昼休みの時間になると、いつも校庭のバックネット裏でデビュー曲を歌っていた私たち2人を、友だちはどう思って見ていたんだろう。



当時を思い返すと、パワフルゆみちゃんのおかげで、内向的だった自分が少しずつ変われたように思う。

あの雑誌は、ゆみちゃんが持っていてくれているはずだ。あれ、いや、私の実家にあるのかな?

もしもいつかゆみちゃんに会えたら、2人でデビュー曲を歌いながら、雑誌を読み返し、ふたりの楽しかった日々を語り合いたい。





後日、説明不足なところを加筆しました。

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