過疎の島の未来を思う
10月の最後の週末、妹と一泊二日の旅に出た。泊まりの姉妹旅行は大人になってからは初めてだ。
目的地は両親の故郷、瀬戸内海の島。
島へ行くのは3年ぶりだった。
前回は、弟が両親を島へ連れて行ってあげようと計画してくれて、弟の運転で、両親と私と妹と、つまり家族水入らずで島へ渡った。その日は、私と妹は日帰りで帰ってきた。
当時、肺を患い、歩くのがやっとだった父は、島に帰ると別人のようにサクサク歩いた。叔父たちにも会えてよほど嬉しかったのだろう。
その旅が父の最後の里帰りになった。
昨年父が亡くなり、その後、立て続けに島で暮らす父の兄2人も亡くなり、島に残る親戚もずいぶん減ってしまった。
今回のいちばんの目的は父を島へ連れて行くことだった。
そして、葬儀に行けなかった叔父たちや祖父母の墓参りもしたいし、母方の叔母たちにも会いたい、と思っていた。
観光というより親戚に会いにいく旅。
この先何度も来られないかもしれない、そんな気持ちも持ちながら、私と妹は早朝からスーツケースを転がし最寄りの駅へ向かった。
*****
しまなみ海道
新幹線が福山駅に着き、ホームに降り立つと、なんとなく空気が柔らかく感じた。気持ちがもう、潮風を求めているようだ。
そこからレンタカーに乗り、妹の運転でしまなみ海道を走った。
海が見えた瞬間、ふたりとも歓声をあげた。
どんどん進んでいくうちに薄曇りの空に日差しが降り注ぎはじめ、最初は黒っぽかった島々や海も明るい色に変わっていった。
穏やかな瀬戸内海を見ていると、帰ってきたなぁっていつも思う。
両親の生まれた島、大三島に着いたのは、ちょうど昼ごろだった。
高速道路の出入り口は、よそいき風でおしゃれな新しい顔になっているが、少し山の方へ走れば昔のままだ。
私たちはふと、右手に見える船着場に立ち寄りたくなった。
船着場
幼い頃は、しまなみ海道がもちろんないので新幹線で三原駅まで行き、三原港から高速艇かフェリーに乗ってこの島へ渡ってきていた。
今では船の出入りが少ないのか、ローブが張られていて、先へは立ち入り禁止になっていた。
小学生時代、夏休みの終わりに、長期間遊びに来ていた母方の祖父母の家から自宅へ帰るとき、別れ際に桟橋で祖母はポロポロ泣いていた。
船が見えなくなるまで、いつも白いガーゼハンカチを振って送ってくれた。
それが思い出されて、胸がいっぱいになった。
しばらく船着場から海を眺め、私たちは「ここしかないね。」と話し合った。
父をこの海に帰してあげよう。
港からかなり離れた場所までずんずん歩いていき、美しくて静かな場所を見つけた。
粉になった父の指の骨をほんのひとつまみずつ、手のひらから海へ、妹と一緒にまいた。
深緑色の海に混じってすぐにわからなくなるかと思ったが、太陽の光に反射して一粒一粒が光りながら、キラキラ、キラキラと、ゆっくり、少しずつ、父は海の奥へ帰って行った。
あまりにも幻想的なその様子を見て、妹と涙ぐんで、「よかったね」「父さんが喜んでくれてるね」と言い合いながら、しばらく海を見つめていた。
叔父の家
それから、亡くなった父方の叔父たちの家を順番にまわることにした。
どんどん山へ行くにつれて、空き家っぽい家が目立つようになる。
50年前にタイムスリップしてきたみたいに、風景は何も手を加えられていない。
家主をなくした叔父の家も、昔のまま、丁寧な佇まいのまま、時が止まっていた。
何もかもがそのまま。
ガラス越しにかかる黄色い花柄のタオルも、農具の詰まった物置も、木の物干し竿も表札もそのまま。
ただ、いつも開け放たれた玄関だけはしっかりと鍵がかかっていて、あぁ、もう会えないんだな、という現実を家が黙って教えてくれた。
玄関に手を合わせて、いつも笑顔で迎えてくれた叔父や叔母を思って「ありがとうございました」と伝えてきた。
墓参り
さらに山のほうへ進み、母方の祖父母の家に向かった。
祖父母の家には、今では母の妹がひとりで住んでいる。その叔母に挨拶をしてから、歩いて墓参りに行った。
父方や母方の祖父母、叔父や叔母たち、従兄弟と、順番に墓参りをして、みんなが元気で大集合していた賑やかなお盆やお正月を思い出していた。
墓から見える景色を見下ろすと、しまなみ海道の多々羅大橋が遥かに見える。
背後に広がる山は深い緑色だった。
祖父母が山を切り開いて大事に育ててきた広大なみかん畑は、もう少し山の奥にある。祖父母が亡くなり、誰も手入れをする人がいなくなってしまったみかん畑は、自然の山に戻っていった。
祖父母宅のまわりの家も、ほとんど誰も住んでいなくて、寂しいくらいに空き家だらけだ。
住んでいたとしても、ひとりになった高齢者ばかり。
叔母も足が悪くて杖を使って移動しているのだが、子どもたちは島を出て生活しているので、叔母は長い間ひとりで暮らしている。
食べるものを買いに行くにも車がなければどうしようもなくて、そんな足でも無理に車を運転して、集落に唯一存在する農協へまとめ買いをしに行っているようだった。
叔母の家
墓参りを済ませて叔母の家に入ると、叔母が洗濯機の取扱説明書を出してきた。
「ちょっと悪いんじゃけど、あんたたち、洗濯機の使い方を教えてくれる?新しく買ってね、使いたいんじゃけど、ようわからんのよ。」
と言うので、風呂場にある洗濯機を一緒に見に行った。古い家屋の風景に違和感を感じるくらいに大きくてピカピカな全自動の洗濯機が置いてある。
テレビ通販で買ったらしい。
車が入ってこられないくらいの田舎でも、ちゃんと届けてもらえるなんて、テレビ通販も運送屋さんもすごいな、と思った。
長年使っていた2層式洗濯機が壊れ、叔母は全自動がさっぱりわからずに困っていたようだ。しかも粉洗剤しか使わないし柔軟剤も使わないのに、液体洗剤や柔軟剤を自動で入れるところまで付いている。
「なんでもテレビ通販で買うんよ。服でも電化製品でも。買うとこが近くになくてのぉ。遠くへは買いに行けんし、テレビを見て電話したら買えるけん、助かるんよ。」
と言っていた。
テレビ通販の番組が、叔母たちは大好きだそうだ。
粉洗剤を使ってこの洗濯機を使う方法を教えて、「いけんのぉ、聞いてもすぐに忘れるわい。」と言うので、紙に手順を大きく書いてみた。
「ありがと。1週間ぶりにようやく洗濯できるわ。助かったわ。」
と喜んでもらった。
過疎の島で暮らすこと、しかも年老いてひとりでここに暮らすことの厳しさを感じた。しかし叔母は、
「私は幸せなんよ。近所の人がついでに買い物してきてくれたり、犬の散歩をしてくれたり、家の掃除機までかけてくれたりするけん、そんなに困ってないんよ。」
とケロッと笑っていた。
強くてたくましい。
不便を私たちの基準で判断するのは違うな、と思った。
ふと茶箪笥を見ると、奥の方にある懐かしいコップが目に入った。幼い頃に見た柄だ。
ずいぶん長い間使われないままそこにあったようで、もう使うこともないと叔母が言うので、そのコップをもらって帰った。
*****
翌日27日はサイクリング大会で、午前中はしまなみ海道が全面通行止めになるので、その日のうちに島を出た。
そんな賑やかな催しがあることに新しい希望を感じた。
島では仕事も少ないので、若者がどんどん島から出ていき、人口も激減している。
過疎化が進むこの島はどうなるんだろう、そんなことを危惧していたが、新たにこの美しい島を生かすような産業が生まれているようだ。
若い人たちが集い、また賑やかに人々が暮らす島になればいいな、と心から思った。
次は、母を連れて行こうかな。
本人は足が悪くて自信がないと言っているけど、故郷の島に帰れば、きっとサクサク歩けるような気がしている。
書きておきたいことが盛り沢山で、久しぶりに3000文字を超えました。
読んでいただきありがとうございました。