母娘と神父と村人と。「火曜日の昼寝」
ガルシア・マルケスの短編集「ママ・グランデの葬儀」の一編。
文庫本で十ページ足らずの短い短編だが、何度読み返しても飽きない。
母親と娘が炎天下を走る列車に揺られている。列車はトウモロコシ畑が広がる熱く乾いた大地をゆっくりと走っていく。列車の窓からは機関車の息詰まるような煙が入ってくるが、ブラインドが錆びて閉められない。
母親は「膝の上にのせた上塗りのはげたエナメルのカバンを両手でしっかりと押さえ」背筋をまっすぐ伸ばして座席に座っている。その佇まいは「貧しさに慣れた人に具わる、注意力の行き届いた落ち着きがあった」と描かれる。
娘は12歳で初めての列車の旅だが、それを楽しんでいる様子はない。母親の言うことをよくきいて、枯れた花束を洗面所で水につけたりしている。母娘は「厳格な喪に服して」いるのだ。
二人は列車の中で簡単な昼食をとり、列車が目的の村に近づくと、母親は娘に「何かしたいなら今のうちにしときなさいよ」とつげる。「水を飲むな。決して泣くな」とも。やがて列車は真夏の陽射しを浴びて静まりかえった昼下りのとある村に到着する。母娘は無人の駅に降り立つ。この母娘がどこへ向かい何をするのかはまだわからないが、母娘にとって決して楽しいことではないということはわかる。
この始まりのシーンがとても良い。列車を降りて村へ入っていくところで終わってもいいぐらいだ。ヘミングウェイの短編集のどこかに入っていてもおかしくないような文体と雰囲気がある。
作者は真夏の陽射しに照らされた、人影のない通りを歩く黒い服の母娘というイメージ(実際に見たのか頭に浮かんだのかはわからないが)をもとにこの小説を書いたらしい。
母娘はその村に母親の息子の墓参りにやってきた。息子は数日前、真夜中に泥棒に入ろうとして撃ち殺され、そのままその村の墓地に埋葬されているらしい。
母娘はシエスタのさなかにある静まりかえった通りを歩き、墓地の鍵を借りるために司祭館を訪れる。対応に出たのは神父の妹で、神父はすでに眠っているという。母親は帰りの汽車の時間を理由に、なんとか神父に起きてもらう。神父は母親の話から、数日前に埋葬した身元不明の若者が彼女の息子であることを知る。
神父は尋ねる。「彼を正しい道に入らせようとしたことは一度もないのですか?」
「あれはとてもいい人間でした」と母親は言う。自分は息子に間違ったことは教えていないと淡々と応える。彼女の言動に、神父のほうが顔を赤らめるほどだった。
母親に墓地の鍵を渡した神父は、暑さが和らぐのを待ってはどうかと勧めるが、母娘は出ていこうとする。帰りの汽車の時間があるからだ。ところが、普段この時間は静まりかえって人気のない通りに、子どもたちや村人が集まっていた。母娘の訪れに気づいて様子を見に出てきたのだ。神父と妹はこのまま母娘を村人の前に送り出すのをためらう。妹は母娘を村人の好奇の目に触れさせないために、せめて日傘を貸そうと申し出るのだが、やはり母娘はそのまま出ていってしまう。出ていくところで話は終わる。
この物語の中で、母親は終始毅然とした態度を崩さないが、それでも所々で決して心穏やかではないことが、さり気なく語られる。
例えば、神父から墓参についての説明を受けて「たいへん注意深く説明を聞いたが、ニコリともせずに礼を言った」
また、村人が集まっていることを知ると、娘が持っていた花束を「ひったくって」挑むように出ていこうとする。
母親が静かな態度の内に激しい怒りを秘めているのがわかる。
息子を撃ち殺した相手はレベッカ夫人という未亡人で、数週間前のある深夜、ドアをこじ開けようとする音を聞いて、恐ろしさのあまり一度も使ったことのない古い銃を引っ張り出してきて、いきなりドアに向けて撃ったのだ。
翌朝ドアの前に、貧しい身なりをした男が鼻を打ち砕かれて死んでいた。
ほんとうに泥棒に入ろうとしたのかどうかも定かではないうえに、仮にそうだとしても何もドア越しにいきなり撃ち殺さなくてもいいではないか、母親としては当然そう思い、怒ってもおかしくない。
だが、そんな母親の怒りの言葉はどこにも描かれていない。たぶん彼女は、当の未亡人や神父や村人に対して、怒りをぶつけたり非難したりはしないだろう。そんなことをしても、悪いのは泥棒に入ろうとした息子の方で、さらに息子を泥棒にした親の責任をも問われるだけだろう。
実際に神父はそう言う。それに対して母親はただ「息子は正しい人間だった」としか言わない。息子に対する仕打ちを非難したり糾弾したりする言葉は一言も出てこない。むしろ母親としては、とっとと墓参を済ませて一刻も早くその村を立ち去りたがっているようにみえる。
つまり自分たち家族にふりかかった悲劇をすでに受け入れていている。ただ腹立たしいだけなのだ。
そんなふうになるまでには、どれほど多くの理不尽な出来事を引き受けてきただろう、ということが容易に想像される。「貧しさに慣れ」ているということは、不幸にも慣れているということだ。
母親についての切り詰めた描写は、そんな彼女の越し方を想像させて、存在感が迫ってくる。
作者は慎重に言葉を選んで、母親や娘や息子にあからさまに肩入れするような表現は避けている。彼らの言ったこと、やったことを淡々と描写していく。それが返って読み手の想像をかき立て、読者はいつの間にかこの母親に寄り添っている。
さて、もう一方の登場人物である神父も、印象的な描き方をされている。
神父は息子への仕打ちを「神の御意志は測り難いものです」と正当化する。どんなに理不尽に思えるような出来事でも、それは神の御意志であり、神の御意志は人智では測り難いものなのだ。
だがそう言いながらも、長年の経験から息子の死を「神の測り難い御意志」としてとらえることに懐疑的になっている。神父が懐疑的になっている理由がもう一つ。それは暑さだ。神父は暑さのせいで、息子の身に起こった出来事を神の御意志だとする確信が持てなくなっているというのだ。
「神の御意志は測り難いものです」と言ったあと、「一つには経験が彼を少しばかり懐疑的にしてしまっていたので、また一つには暑さのせいで、彼にはたいした確信はなかった」
と作者は書く。
これはどういうことだろう。
神父ともあろうものが、暑いからといって、神の御意志に対して確信が持てなくなっていいものなのか。それとも神父が神の御意志に確信が持てなくなるほど、異常な暑さだというのだろうか。
この話には、頻繁に暑さについての描写が出てくる。溢れていると言ってもいい。
母娘を乗せた列車が果てしなく続くバナナ園に入っていく冒頭部分で、「午前十一時で、暑さはまだ始まっていなかった」と、暑さへの言及がはじまる。その後、
「十二時には暑くなりはじめていた」
「(列車の)窓からは焼けつくような乾いた空気が入ってきた」
「一瞬、ぎらぎら輝く八月の火曜日のさなかにある村の全景が窓に光った」
「村は暑さのなかに浮いていた」
「その時間には、睡魔に苦しめられた村は昼寝をしていた」
「何軒かの家では、あまりにも暑いので家の人々が中庭で昼食をとっていた」
「はたんきょうの日陰に椅子を持ち出し、道路の真中に座って昼寝をしている者もいた」
と、暑さがひたすら強調される。
そんな真夏の陽射しに溢れる静まりかえった通りを、黒い服の母娘が歩いていく。それはちょっとまぼろしのようなイメージだ。真夏の陽射しに浮かぶ蜃気楼のような。
だから、考えようによってはこの母娘の墓参は、ひょっとしたら神父が午睡のさなかにみた夢の出来事だったのかもしれない。
そこで「火曜日の昼寝」というタイトルについてちょっと考えてみる。
昼寝はシエスタの訳語。シエスタとは本来、昼寝というより午後の食事を伴う休憩時間、という意味のようだ。昼の十三時頃から十六時頃まで、暑い陽射しを避けて十分に休息して、午後の仕事に取りかかるというわけだ。だからこのタイトルは「火曜日の午後の出来事」という程度の意味なのかもしれない。だがほんとうに昼寝だとすると、誰の昼寝なのかという問題が出てくる。神父の昼寝? または村人の昼寝? または母娘の昼寝?
この母娘の出来事が神父の夢だとすると、タイトルの「シエスタ」はまさに神父の「昼寝」という意味になる。何しろ、神父は「ほとんど完全に眠りこみながら、カルロス・センテーノの墓を見つけるにはどうすべきかを指示した」。ここはちょっとマルケス的な不思議な描写になっている。ほんとうに完全に眠りながら対応したのだろうか。このあたりの表現のせいで、物語のリアリティがちょっと揺らいでくる。
物語の中で起こった事実だけをみると、実際にありそうな、またはほんとうにあった話をもとにしているようなのだが、それが所々で差し込まれる非現実的な表現(暑さに対する表現を含め)によって、どこか寓話のような印象を受けるのだ。
それにしても、このどこか憎めない神父はこの短編集の別の話、「土曜日の次の日」に出てくるカルロス神父と関係あるのだろうか。しかも「土曜日の次の日」には息子を撃ち殺した未亡人と同じ名前の未亡人、レベッカ夫人がでてくる。
マルケス的な表現として他にも気になる箇所がある。墓地の鍵についての形容部分だ。
聖ペドロの鍵とは、弟子のペテロがキリストから与えられた天国の門の鍵だ。キリスト教の世界では有名な話らしい。だがこの鍵の強調の仕方はどうだろう。この鍵の形容のくだりがなくても特に問題なさそうに思える。なぜマルケスはこのような鍵の形容の仕方をしたのだろう。
単純に考えると、この鍵は誰もが等しく天国へ迎えられることの象徴で、悲惨な死を遂げた息子も今は天国で安らかに眠っているだろうということを暗示しているのかもしれない。
鍵を見て、それが天国へ通じる鍵だということを、女の子は信じられる。母親は子どもの頃は信じていたが、今では信じられなくなっている。そして神父もかつては信じていたが、今では確信が持てなくなっている。そういうことなのかもしれないが、キリスト教的な価値観や文化がわからないので、まったく見当違いかもしれない。
わずか10ページほどの静かな短編小説だが、たださらっと読んでも良いし、あれこれと考えながら読んでも味わい深い短編だ。
集英社文庫
「ママ・グランデの葬儀」
G・ガルシア・マルケス(著)