誰かを信じるとはどういうことか|アドラー心理学に学ぶ信頼の考え方
こんにちは。twins|コーヒーと庭 です。
あなたには心から信頼できる人がいますか?誰かを信じ切るというのは案外と難しいものです。
そもそも他者を信じるとはどういうことでしょうか。今日はアドラー心理学についての名著「嫌われる勇気」を読みながら考えてみることにします。
もちろん、熱いコーヒーをお供にして。
信用と信頼
║自己への執着を他者への関心に
嫌われる勇気の中で信頼についての言及があるのは、『第5夜「いま、ここ」を真剣に生きる』の中です。
個人的にこの章はめちゃくちゃ好きです笑
アドラー心理学の核になる「共同体感覚」についての議論を深める中で、自己への執着を他者への関心に切り替える必要性が説かれています。
そこで重要になるのが、
自己受容
他者信頼
他者貢献
の3つです。そしてこの他者信頼というワードを説明する中で、誰かを信じるとはどういうことかという議論が展開されます。
║信用と信頼の違い
信用とは、クレジットです。なにかを担保にして信じる、つまり条件付きで信じるということです。
それに対してアドラー心理学では対人関係の基礎は「信頼」によって成り立つと考えます。
人間関係において重要なのは信頼、つまり無条件に信じるということです。無条件に信じるとはどういうことでしょうか。
いっさいの条件なく信じていれば、もちろん裏切られることもあるはずです。それでもなお、その人を信じ続ける態度、それを信頼と言うのです。
しかし、そんなことが果たして可能なのでしょうか。また、どうしてそこまでしてその人を信じる必要があるのでしょうか。
信頼の対義語は懐疑
║懐疑から深い関係は生まれない
浅い関係であれば、裏切られたときの痛みも小さくなる。ですがその関係から生まれる喜びもまた、小さい。
逆にその人と深い関係を築き、人生の喜びを共に分かち合いたいのなら、何の条件もなく信頼をおく必要があるのです。
しかしながら、深く信じていればいるほど、その人に裏切られたときの傷も深くなってしまいます。その恐怖とどう対峙すればいいのでしょうか。
裏切られる恐怖をどうするか?
║課題を分離する
アドラー心理学の基本的な考え方に、「課題の分離」があります。
自分の課題と他者の課題を分け、他者の課題には踏み込まず、自分の課題には踏み込ませないことで、問題をシンプルに考えるのです。
私が信じたその人が、私を裏切るかどうかは私の課題ではなく、その人の課題です。つまり、自分にはどうにもできないことなのです。
そして、「あなたが裏切らないなら、私も与えましょう」という姿勢は信頼ではなく信用の関係です。課題を分離し、信頼の関係を築くことが重要なのです。
しかし、そうは言っても、やっぱり裏切られたら悲しいですよね。自分にはどうすることもできないのは分かるけど、そう簡単に割り切れるものではないと思うのです。
║悲しいときは悲しめばいい
これに対して哲人は、悲しい時は思いっきり悲しめばいいと言います。私はこの言葉に、なぜか救われた気がしました。
悲しい思いをするかも知れない。それでもなお、私はあの人との関係を良くしたい。もっと深くしたい。だから、それを覚悟した上で信頼するのです。
それでもし傷ついたとしても、悲しいなら悲しいと言えばいい。辛ければ辛いと言っていい。
あとは、その人を信頼する「勇気」があるかどうかです。
実践が難しいのがアドラー心理学
さて、ここまで「嫌われる勇気」を拠り所にしながら人を信じるとはどういうことかを見てきました。
何かを期待したり、交換条件とすることなく、ただただその人を信じる。これこそがその人との関係を深くし、人生の喜びを増やしてくれるのです。
そして信じたその人がどんな行動を取るのかは自分の課題ではない。自分にはどうしようもないことです。その結果傷つくことになったとしても、それでもなお信じるのです。
こんなこと、果たしてできるのでしょうか。
期待もせず、見返りも求めず、何度裏切られようと信じ続ける。どう考えても容易ではないですよね。ちょっと想像するだけで、どれほどむずかしいことか分かります。
しかしそれでもなお、誰かとの関係を深くしたいのなら、勇気を持って実践すべきなのです。
そしてもしかしたら、それほどまでに想う相手がいることそれ自体が、幸せなことなのかも知れません。
アドラー心理学は理解はできても実践がとても難しい哲学です。けれど、どうにか努力してみようと思います。
勇気を振り絞って!