チョコボールで学んだ人生
予定ってのは大事なもの。
たとえば、友達と遊ぶ約束とか
学校の宿題を終わらせる時間確保とか
半年後の旅行プランのスケジュール調整とか。
そして自分の立てた予定通りに
うまくことが運ぶと、ガッツポーズ。
「ぬっふっふ。俺は充実した時間を堪能した!」
なーんて悦に入ってシアワセな気分になる男。
それが私です。
でも、予定ってのはあくまで予定。
友達の都合が直前でつかなくなったり
宿題をやるはずがなぜか漫画を読んでいたり
旅行しようとしたら外出自粛を呼びかけられたり
こんなふうに
予定が狂ってしまうこともしばしば。
そのたびに両手で頭を抱えて
「うう…どうしてこうなったのだ!」
とがっくりうなだれる男。これも私です。
予定通りになってほしいんです、私は。
きっと根っこがワガママなんでしょう。
・・・
ふと、記憶を漁っていたら出てきました。
「チョコボールが食べたいのッ!!」
といって泣きわめく推定5歳の私の映像が。
私は全力で駄々をこねていました。
自宅の畳で寝ながら、手足をバタバタさせて。
隣には困っている顔の母親がいます。
どうやら唐突に甘いものが食べたくなった私は
母親にチョコボールを要求したのですが
「今ウチにチョコボールはないのよ」と
やんわり諭されてしまったようです。
当時の私の頭の中では
母親に欲しいモノをねだる=望みは叶う
といった黄金方程式がババーンと成立しており
その不可侵であるはずの方程式が崩されたことに
幼い私は人生初の大ショックを受けたのです。
しかし、一度手にした黄金方程式は守りたい。
(ここで可愛いぼくが泣き叫んでねだれば
母親は慌てて買い物に行くのではなかろうか?)
私はどんなに卑劣な手を使ってでも
自分のワガママを押し通そうと決意したのです。
うーん発想が幼児。だがその心意気や良し!
「ないものはないのよ。次郎ちゃん」
いつも優しい母親が、どういうわけかその日は
毅然とした態度を崩しませんでした。
今思うとこれは、母親の愛。
「希望すれば全て叶うことなんてないのよ」
ということを学んでほしい気持ちの現れです。
が、推定5歳のぼくは泣き叫ぶばかりです。
ただただ母親に困った顔をさせるだけでした。
うーん、本当に申し訳ないことをした。母さん。
結局その日はチョコボールをゲットできなくて
うおんうおんと二時間くらい泣いていた私ですが
晩ごはんの時間にはケロリとしていました。
「やっぱウチのカレーってウマいねぇ!」
私の駄々なんてそんなものです。
当時の私はチョコボールが欲しいのではなく
母親の優しさを確認したかっただけなのかも。
母親が諭してくれることが本当の優しさだと
気付いたのはずっとずっと後のことですけど
それでもやっぱり諭してくれて良かったです。
おそらくこういったことの積み重ねで
人は成長するのかなって思います。
絶望して、泣いて、痛みを受けることは
イヤなことだけど経験しておきたいなって。
他の人の人生を体験したわけじゃないから
絶対にそうなの!とは言えませんけど
生まれてずっと甘やかされっぱなしの人生って
とっても不幸になるのかなって感じます。