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子供に学ぶ対話術

小学生の甥っ子とたまに遊ぶことがある。
遊ぶといっても、「おしゃべり」が主だ。

甥っ子がすごい。話が止まらない。
好奇心と言う球を次々と投げ込んでくる。
うまく捕球したら次、うまく捕球したら次。
まるで飽きない。まるで終わりが見えない。
尽きる事の無い好奇心はどこから湧くのか。

私たち「大人」は子供と話していると
錯覚めいた感覚に陥ることがある。

目の前ではしゃいでいる子供。
私がいるからはしゃいでいる!
私が子供を楽しませているのだ!
と、思いあがってしまう感覚だ。

たしかに、子供は「私」と対話している。
たしかに、子供は「私」に笑いかけている。
身をよじり、おどけて、嬉しがっている。

たしかに、「私」の言葉に反応している。
たしかに、「私」が狙って笑わせている。
それはそのとおり。何も間違っていない。

・・・

子供は天才だ。
楽しむことの才能を巻き散らしている。
周囲を巻き込み、感化させるほどの才能で。

「会話をする」

自身の体験を記憶として留めたそれを
何度も咀嚼し、ねぶり倒し、反芻する。
そして意味の通った言葉として口から出す。
しかも、目の前の人に伝わるようにできるだけ
言葉を選ばなくてはならない、相当な高等技術。

これを年端も行かぬ子供がやってのける。
それは未知、未体験、未確認の連続。
感覚でやり方を探り当て、実行する。
おそらく「失敗」なんてまるで考えていない。
むしろ失敗の「概念」がまだ無いというべきか。
だから躊躇なく踏み出せる。
最速最短のトライ&エラーで突き進む。
未知に触れるワクワクをたくさん従えて。
楽しさの極みだろう。笑顔にもなる。はしゃぐ。

子供は天才だ。
楽しむことに関しては最強だ。
「成長」すること自体楽しさの極みであり
「成長」の伸びしろだらけなのだから。

究極的に言ってしまえば
子供は誰と関わったって楽しめる。
あからさまな敵意や暴力を向けられない限り。

・・・

「私」が子供を楽しませているんじゃない。
「子供」が私を楽しませてくれているのだ。
決して驕ってはいけない。
また、侮ってはいけない。

むしろ私たち「大人」は
敬意を払うべきではないか。

その真っすぐな心。
濁りの無い瞳。
信頼が前提の声色。
そして笑顔に。

・・・

「対話術」に関するテクニックはそれこそ
星の数ほど書籍にまとめられて存在するけど
そういう小手先のことよりもまず
人との向き合い方を学ぶ方が先ではないか。

私たち「大人」が当たり前にできていたことを
もう一度「子供」に学び直させてもらっている。

…そんなことを私は教えて貰った気がする。


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