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珈琲屋として、お客さまに何ができるのか

珈琲屋を目指している。というかもう半分珈琲屋だ。

今日は17杯もお客さんがコーヒーを飲んでくれた。小さな街ではあるけれど、「ここの珈琲が美味しいと聞いたから」と言ってもらえるようにもなってきた。とても嬉しいことです。

僕は結構前から珈琲屋になろうと決めて、それより前から自分で店をやりたいと思っていました。どんな店でどんなメニューで。という考える行為は苦手なのだけど、妄想は得意で。妄想というよりも密かな夢といった所でしょうか。ただやりたくないことは決まっててその逆を考えただけです。

だから珈琲屋でなくてもよかったのかもしれないけど、毎日を生きていたら、自然と珈琲とご縁があって、自分で焙煎をするようになって。今がある。だから珈琲屋になる。

ここまでは、自分自身のために珈琲屋になろうと思ったわけ。
じゃあ珈琲屋になったら、自分のためではなくてお客さまのために何ができるのかが重要になってくるとは思う。でも1番は自分が心地よい環境で仕事をしないといけないのだけれど。自分自身が悩むような経営では失敗すると思う。

僕はこの珈琲が美味しいと思っていて、この淹れ方が良くて、これと食べると美味しいんですよ。というのが言えたらそれが何よりも1番良い珈琲屋だと思う。〜〜で作られたから美味しいんですよ。も珈琲としては重要なのだとは思うけど、僕はそこを語るような知識はないので。でも美味しいと思うことや自分がどう思うのかはお客さんに伝えることができるはずだ。

こうして文章にすることが好きなのだけど、頭の中はグールぐるしている。

他者のための情熱というのは、どこから湧いてくるんだろうか。
今の珈琲屋は自分のためすぎやしないか。


というのが今回のタイトルな訳でして、じゃあ他者のための珈琲屋になるならと考えようとしたけど、他者のためにやって自分自身がキツくなることはしたくない。それは自分勝手な経営がしたいというわけではなくて、お互いが良い関係でいたい。

例えば僕たちが悪くないのにお客さんがキレていて、それに謝るようなことはしたくないわけ。それは悪くないから。お互いが良い方向に向かうような経営がしたい。というのもわがままなのかもしれないけど、でもそれができるのが自分でやるということな気がするんですよね。

自分勝手ではなくて、いい加減でやりたいんです。なんでどっちかが不幸になるようなことができるのかわかんなくて。どっちも幸せになって帰るのが1番じゃないですか。こんな楽観的な考えはダメでしょうか。いいえダメではないと思う。

珈琲屋をやったら、多分夜遅くに家に帰るか、早起きをして焙煎をしないといけなくなるだろうけど、それが仕事なんだからやるしかない。やるしかないことをやるのは苦というよりももっと良いことだと僕は思います。やらないといけないことではなくてね。やるしかない

やっぱ僕が良いと思うコーヒーを飲みにきてくれて、その人が幸せになって帰ってもらうことが、仕事なんだなきっと。

これができるのが僕の幸せになればいい。お金を稼ぐのも大切だとは思うけどね、それ以上にみんなが笑顔で暮らしていけるような、街の珈琲屋で痛いですね。そんだけだ。頑張るぞ。

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