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クリスマス。鼻水ダラダラ
お久しぶりです。
何を考えているのか、いないのか。
ぼーっとしながらお店をやり。時間だけが過ぎていきます。12月。ありがたいことにお客さんに沢山来ていただき、経済がうまく動いている気がします。僕が生きていけるかどうかは別の話ですが。これを読んでいる皆様が思っているであろう、珈琲いいかげんの月売上予想の3割くらいは下回っています。自分でもなぜお店が続いているのかよくわかっていません。ただそれはちゃんとお客様がお店を知ってくれ、珈琲を買ってくれたり飲んでくれたり。そして何度も店に通っていただけるからであり、決して自分だけの力ではない。ということは忘れるべきではないのだと思います。売上が良い日が続くと、これはもしかしたら珈琲屋として認めてもらえたのかもしれないなど思ったりもしますが、それはまだ先の話かと思います。認めていただいているのかもしれませんが、当の本人がいまだに。いやこれから先もずっと珈琲ってなんだろな?を繰り返していくのだと感じます。毎日のように手廻しでコロコロと焙煎をします。火力の調整のみ。時間も温度も測らず。指針とするのは己の感覚のみです。味もバラバラ。それでも僕自身が珈琲のことをちょっとだけで考え続けていて、信じるものがいくつかあって、それらを自分なりに解釈してお店で続けている感じです。僕はですね、珈琲って自由だと思います。やはり正解も不正解も正しさも正しくないも全部含まれています。だから自分が美味しいと思ったらそれでいいんじゃないかって思ったりもする。よくよく見たら、珈琲屋は街の中にゴロゴロとある。しかもその珈琲屋どれをとっても同じはない。それぞれのお店に個性がありドリップのやり方があり焙煎の仕方がある。使う豆が違えば、同じ豆だとしても味は違う。だからお客さんとして僕も自分が好きな珈琲屋さんに行く。それはこのお店嫌だとかそういうのではなくてシンプルに好き嫌いの話じゃないかなと。僕は浅煎りの珈琲が好きではないので、自分では焼きません。(焼けない)なので行く珈琲屋さんも自然と深煎りが置いてあるお店になっていきます。でもたまに浅煎りを頼んでみたりもしますが、回り回って「やっぱ深煎りが美味しいなあ」となるわけです。何が言いたいか自分でもよくわからなくなってきましたが、僕は珈琲のことをあまり話さないし発信もしません。理由はなんだろう。なんか自分が言う珈琲のことを正解だと言いたくないからなのかな。でも自分が店でやっていることを自分の正解だと思っているのだからそれを発信すれば良いのだろうけど。それは僕がお店で直接言えたら1番良いよね。僕が信じている珈琲は美味しいです。でも別にこれじゃなくてもいい。美味しいと思ってもらえているのならお店をやっていてよかったと思えますし、僕は僕なりに焙煎を日々研究しています。よーわからんけどこっちの方が美味しくなるかな?とか思いながら毎朝悩みながらも焼きまくってます。珈琲屋続けていきたいですね。手取りじゃない。利益で考えたら正社員で働いている方の1日分くらいしかない。それ以下の月の方が今は多い。でも少しずつ1人ずつお客様が増えている気はする。僕は変わらず店に立って珈琲をポタポタ淹れようと思います。ああ、何をライバルと思っているのか。どこと戦っているのか。親友と話したけど、あの2人ってさなんでか分からんけどずっとお店が続いているよね。そう思われるくらい、頑張ってみようと思います。メリークリスマス。今年は日々と変わらず布団に入りもう寝るところです。今年はイルミネーションも見ず、ケーキも食べず、普通の日でした。来年はまた何かあったらいいし、なくてもそれはそれでいい。とにかく来年もこうして文章を書き、店があったらそれでいいです。