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自分で自分を幸せにする。

自分で自分を幸せにする。という言葉を本で見つけた。僕が1人の時になぜか辛いと感じてしまうのもこれなのかなと思って、書くことにした。

何に喜びを幸せを感じるか?という問いがあったらなんと答えますか。僕は第一にお客さんや関わってくれた人が喜んでくれた時。笑顔になった時。と答える。それは他人が自分を幸せにしているの方じゃないかなと思う。別に悪いことではない。でもそれでは自分だけの世界の時、孤独になるのと同じだ。近所の人や隣人の方がたくさん気にかけてくれるから全然1人ではない。だけども家族や地元の友人。そして親友と会って話をしまくっていたあの頃とは全然比べ物にならないくらい違う。良い悪いではなくて違うのだ。

圧倒的に自分が自分を幸せにする方法を知らなすぎた。だから常に他者のことを気にかけ、自分のことを後回しにする性格となってしまったのかもしれない。今でも親友は何しているのかな。2年間働いたあの職場は今も変わらずなのかな。みんなどうしているのかな。と考えることがある。店が暇なら店を忙しくする方法を考えた方がいいのかもしれないけど、それを考える暇があれば、自分を幸せにする方法を取り戻す方がよっぽど良いのではないだろうか。取り戻すと書いたのは、きっと幼少期の頃には自分で自分をある程度は幸せにできていたのではないか?と思うから。学校が休みであれば大好きなゲームをしたり友人たちと野球やサッカーをしていた。他者が関係しているような気もするけど、ちゃんと自分を幸せにしているようにも思う。なんだろうか。僕はあまり食事に行かないと書いたが、それは1人でという意味で誰かとなら食事に行って楽しみたいなと思う。でもそれは誰かといるからで1人じゃあんまり楽しいと思うことはできない。

ちょっと脱線したけど、今こうして1人で珈琲屋をやっているというのは、孤独との出会いがある。1人で朝から晩まで自分と過ごす必要がある。そこにはたまに親友が遊びにきてくれて、家族が会いにきてくれて、友人が来る。それはとても愛されている証拠であってとても嬉しいことだ。それがもし一歳なくなったとしたら店をやる意味も感じられなくなるのではないだろうか。なぜ店をやっているのか?という答えはまだ出そうにない。ずっと出ないのかもしれないけど。

少しずつ。少しずつこの街に馴染んできたように感じる。昨夜タクシーのおじさんに東雲と東雲本町は別の場所なんだよと教えてもらったばかりだけど。そして目の前のマンションの方や近隣住民の方々がたくさん来店してくれるようになった。でも僕の僕自身の何かはわからないけど容量が少しだけパンク気味なのも事実としてある。

当たり前のことだが、今までは毎日のように職場に働きにいくか遊びに行くかしていたし、親友もずっとそこで働いていたから常にお互いがやりたいことをたくさん話しまくっていた。みんなと会えなくなるのはわかっていたことだ。でもこうして今住んでいる地域の人たちとたくさん触れ合うことにより、今までの人たちとの関係が薄くなるというのは耐えられない気がする。どこまで行っても寂しさがつきまとう。薄くはならないか。今まで通りの頻度で会えなくなる。それが異常に寂しい。なんだかんだで自分では自分を幸せにするのが不得意なのだ。なかやんファミリーという小さな会社がある(会社ではない)そこではみんなが各々の店を持って頑張るという未来がある。定休日や休みは個人個人でもちろん違うし、頻繁に出かけることができるわけでもない。会うとしたらその人の店に行くことだけだ。でもこれはきっと悪いことではなく、自分達にとってお互いを支え合って頑張っていくことができる最強のルートなんだと思う。

僕も色々ありながらも、皆の支えがありこうしてお店を始めることができた。看板も立て看板もメニュー表も絵も全て自分ではアイデアとして浮かばなかった。一緒に親友が書いてくれたからこうしてお店がある。ここにある。自分で自分を幸せにする方法もずっと模索し続けるのだろう。そして自分自身のことを少しずつ理解しようともがいて文章にして書き続ける。まだまだ奥底で眠る何かがうずうずしている感覚がある。まだまだ先は長そうだ。兎にも角にもそろそろ店を休んで温泉に行かないとだめだこりゃ。本日もお疲れ様でした。また明日〜〜〜

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