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エンパスを生きる
私は子どもの頃、自分の心を“外皮を持たない蜜柑”のように思っていた。
世界は痛みを伴う刺激に溢れ、皆が平気でやり過ごせることを自分はやり過ごせない。きっと皆には己を守ってくれるツヤツヤの外皮があり、自分にはないのだ。少しの刺激で薄皮は破れ、果汁が漏れ出してしまう、そんな風に考えていた。
また、どういう訳か他人の感情を貰ってしまうことが多かったので、怒りや悲しみに感情を昂らせる人を見るのも苦手だった。
大人になってから、自分のような人間を“エンパス”と言うのだと知った。
エンパスとは
“エンパス(Empath)”とは、感受性が非常に強く、自分と他人の感情の境界がわからなくなるほど敏感な気質を持った人間のこと、だそうだ。
似たような意味の言葉に、“HSP(Highly Sensitive Person)”があるが、HSPを細分化したものの1つがエンパスらしい。
エンパスをインターネットで検索すると、スピリチュアル視点で占いの診断結果のように取れる内容もあったりするのだが、Weblio辞書は医学的な観点からもしっかり解説をしてくれていてる。
エンパスな私
Weblio辞書の解説にもあるが、エンパスには6つのタイプがある。私は“感情ワンネス型”になるようだ。他人の感情を瞬時に読み取る性質があてはまる。
また、エンパスは鬱病になりやすい傾向がある、とも書かれているが、例に漏れず、私も10代のほぼすべてを、鬱病を患いながら過ごしている。17歳の時には精神病棟に入れられたりもして、完治を言い渡された時には20から3年、発症から10年も過ぎていた。青春=鬱病とも言える。
SNSで自分のエンパスについて言及して来なかった理由は、他のユーザーに「私は傷つきやすいので丁重に扱ってください」というメッセージとして受け取られるのを避けたかったためだ(決してHSPやエンパスを公表している方をそのように見ている訳ではない)。
エンパスの日常
読み取りやすいのは子ども
エンパスとしての日常を、私のパターンとしてお話する。
エンパスは超能力者ではないので、すれ違うすべての人の感情を読み取ってしまう訳ではない。対象は主に(精神的に)じっくり向き合う人や、感情の振り幅が大きい人に対してとなる。
特に読み取りやすいのは子どもだ。子どもは感情表現が大きくストレートなので、すぐに心に入って来る。
例えば、迷子になり泣いている子どもに遭遇する。すると、その悲しみをコピーしたかのようにその子の悲しみが伝わってきて、自分まで涙が出たりする。
親から厳しく当たられている子どもを見掛けた時も、押し黙る子どもの感情がひしひしと伝わって来るので辛くて堪らない。
我が家の中では
我が子が夫から説教されている時は、夫の怒りと子どもの悲しみを同時に感じ取ることになる。ただ、怒りの感情というのはそのままコピーされることはない。それは、多くの怒りの奥には、不安や恐怖、絶望、悲しみなどが控えていることが多いからだと思う。私はそちらを読み取るので、一緒になって怒ったりすることはまずない。
説教タイムが終わると、部屋には子どもの強烈な悲しみだけが残るので、その瞬間、私も一緒にしくしくと泣き出してしまう。親としては失格かも知れない。
また、自分が説教をしなければならない立ち場の時も、子どもの感情がダイレクトに入って来るので、やはり泣いてしまう。子を抱き締めながら、何がいけなかったのか、これからどうしたら良いかを話すのだが、傍から見れば何年も会えなかった親子の再会に見えることだろう。しかし、怒りに任せて叱責したりすることを避けられるのは良い点だ。
苦手なのは学校行事
人混みは昔からあまり好きではないが、最近苦手だと気付いたのは子どもの学校行事だ。特に授業参観は子どもや大人が勢揃いで、緊張や期待、その他様々な感情やエネルギーに溢れており、いつも必ず気分が悪くなる。そして、それを想像して朝からもう体調がおかしくなる。熱が出始めたりもする。しかし、「今日は体調が悪いから行けない」なんて言って悲しませたくはないし、私も子どもの喜ぶ顔は見たい。そのため、毎回重い足を引き摺って学校へ向かうのだ。
高校の頃の思い出
まだエンパスなんて言葉も知らなかった高校の頃のこと。クラスメイトの2人が同時に転校することになり、クラスでお別れ会をした。
会が終盤に差し掛かると、転校するクラスメイトとその親友たちは次々に泣き出した。私はそこまで悲しくはなかったのだが、その子らの感情を一気に感じ取ってしまい、恥ずかしながら、彼女たちより大号泣してしまったのだ。お別れ会の後に、担任から「お前は感受性が強すぎるんだな」と言われたのを今でもはっきり覚えている。
エンパスは心が弱い?
ここまでお読みくださった方は、私のことを心が繊細で傷つきやすい人間だとお思いになるかも知れないが、そうでもない。
私の場合は、大人になってから他人と自分の感情の線引きをする訓練を重ねたので、30を過ぎる頃には、感じ取ることは避けられずとも、自分と他人の感情の区別が出来るようになったし、巻き込まれずに自分を保ち、冷静に相手を分析することも出来るようになった。また、自分を守るために他人の期待する行動を取らなかったり、人類みな兄弟という感覚で行動したり、信念を貫くために常識からあえて外れたりもするので、私の周囲は、“図太くて怖いもの知らずの偏屈な奴”というイメージの方が強いのではないだろうか。
数の少ないエンパス
エンパスはHSPより遥に少ない。HSPは周りにも結構いるのだが、エンパスは人生でほとんど出会ったことがない。いても3人といったところだ。
その3人のうちの1人、エンパスだったのでは?と思われる方が𝕏にいた。その方は様々なジャンルの音楽に詳しく、ギターやキーボードを得意とし、落ち着きがあり、ユーモアと茶目っ気のある素敵な方だった。そして、音楽への共感力が非常に高い方でもあった。
彼は音楽そのものに痛みを感じることがあり、曲のテーマによっては精神的な回帰が難しいこと、自分の作品にすら翻弄されることがあるなどと話してくれて、私は彼に深く共感を覚えた。時々、曲やテーマに対してお互いを気遣う会話などもしていたし、彼が作る作品で心がひっくり返って元に戻らないような体験をしたこともある。
私は彼に一方的に親近感を感じていた。彼が𝕏を去って1年、もっと話しておけば良かったな、と思っている。
𝕏と私
こんな私だが、2年もSNSの王道であるタイムライン形式の𝕏を続けることが出来た(一応まだ継続中)。
音楽活動の幅を広げることが目的だったので、「音楽ならば心配いらないだろう」、「他人の感情も文字だけの情報ならそこまで読み取ることはないだろう」、などと当初は思っていた。
1日限定5組様
何様かと思われるかもしれないが、私が1日に聴ける作品の数は、どんなに時間があろうと1日に5曲が限界だった。なぜ他の方のように次から次へと聴けないのか、理由は簡単であった。曲に乗せられた感情を読み取ると疲弊してしまうからだ。また、それを連日行うのもほぼ不可能だったため、私のブックマークは溜まる一方であった。
それまでどんなに交流があった方だとしても、こちらから聴くことが無くなれば自然と関係は希薄になっていく。そのようにして離れていってしまった人も少なくはなかった。
文字から読み取る感情
私を悩ませたのは曲の数だけではなかった。
タイムラインを追っている時、私はいつも洗っている小豆に放り込まれたような気分になった。絶えず沢山の感情やエネルギーにかき回されていたからである。タイムラインというシステムも私の気質には合っていなかったらしい。
文字に乗る感情や、その奥に隠れた欲求というのは、1つひとつならさほどのエネルギーもないのだが、それが何十、何百となると心が追い付かなくなる。また、内容にも左右された。自分自身に向き合うことでしか解消出来ない欲求を抱えている人ほど、そのエネルギーを外の世界に向けがちなので、例え短文であれ、読んでいるだけで苦しくなることが多かったのだ。
SNSに向かない人間
上記2つの理由から、私は1年経つか経たないかぐらいで限界を感じてしまった。さっさと辞めてしまえば良かったが、それをしなかったのは、しんどさを我慢してでも、この先もう出会えないであろう多才で素敵な方々と交流を続けたかったからだ。
だが、これ以上自分に無理をさせることは出来ない。今までのようにはいかないが、自分の出来る範囲で、親しい方々を応援出来たらいいと思っている。
私のすべきこと
エンパスを“能力”などと格好良く書いているサイトもあるが、私の場合、障害と言っても過言ではない。何かに生かせたこともなければ、エンパスで良かったと思えたこともないのが実状だ。
だが、エンパスによって損をしたか、得をしたかなどどうでも良い。なぜなら、このような私と懲りずに関わり続けてくれた人々の存在が、私を十分幸せにしてくれているのだから。やるべきことがあるとすれば、それはエンパスに関してではなく、ただただ、彼ら彼女らに感謝することのみなのである。