「生きる」が「後悔しない死」を覚悟するとき。
コザ暴動一部のドキュメンタリーを観て、まだ戦争が終わってない感覚が、どこかでまた呼び起こされる。(でも直ぐ日常に戻る、を繰り返す)
この感覚は何だろう、、、
過去があるから、今の私たちがいるのだけど、同時に人は嫌な辛い想い出を消し去り、伝え忘れる生き物である事を知りながら置き去りにする。
何とか当時を汲み取り知ろうともするのだけど、歴史本やwebから得られる情報には限界があって、歪められている事もあるだろう。教科書で教わった事が誘導された概念だと今更知るように。
このドキュメンタリーの側面は「生きる」本能の逆転を垣間見る。
敗戦国となって米統治下で生き残るには基地との共存を優先するしかなかったが、その基地が島民の尊厳を奪い、やがて積み重なった怒りが爆発する瞬間、「後悔しない死」を覚悟し、同時に「生きる」も覚悟する。
つまり、日々生活する為の「生きる」と、死ぬ為に「生きる」は、言葉は同じ「生きる」だけど、意味はまったく異なる。
生存と繁殖の本能において、後悔したくない意思が上回ったか、自身の生存と繁殖の危機として動くのか。
どちらにしても、不条理の積み重ねは、不幸の連鎖が起きやすい。と、思った。
戦争体験はしていないけど、こうやって考える時間が、一つの供養だと信じたい。
「生きていれば、なんとかなる」了