「〇〇(夫の名前)の奥さん」と呼ばれることについて
お寺にたくさんのお参りがある年末年始。ご門徒方はもちろんだが、友人たちもまた、お寺に足を運んでくれる機会が増える。除夜会の準備や運営は、いまや友人たちの協力なくしては成り立たない。無条件で手を貸してくれるかれらの、なんと有難いことだろう。
私は福岡県はおろか、九州の出身でもない(嫁いで来るまで住んだこともない)。なので、近隣の友人たちは皆、もともと夫の幼馴染や同級生と、その家族だ。移住して丸6年、一緒にお酒を飲んだり遊んだりしながらお互いのことを知り、やがてかれらは私にとっても大切な友人になった。だが、当然ながら私の友人というわけではない夫の友人はいる。
関東から帰省し、お寺にやってきた夫の友人夫婦(30代)に、「〇〇(夫の名前)の奥さん」と呼ばれて驚いた。最近、そんな風には呼ばれた記憶はご門徒を含めて多くない。こういったジェンダーリテラシー的なものは、意外と都会や田舎、年代といった環境要因よりも、その人自身によるのかもしれない。
「〇〇の奥さん」
久々に聞くと、わりと呪いめいた要素のある言葉に思える。今という時代において、すべての相手や文脈においてNGとは言えない。しかし、なんだろうか、この拭い去れない誰でもない感。ということで「奥さん」について、調べてみることにした。
「奥さん」の語源
いいですね、奥さん。家の奥の方に置いておいてもらえるなら、そう呼ばれてもいいのかもしれない。表に出なくてよくて、お寺においては境内を走り回って行事の準備やらなんやらしなくてよくて、あれやこれやの来客対応もしなくてよくて、それでも敬意を込めてそう呼んでもらえるのなら。しかし現実は違う。今や、世のすべての「奥さん」が、家の奥に座していればOK、なんてことはない。そういう意味ではもう日本に「奥さん」など存在しないだろう。
見直したい表現
そんなことを調べていたら、埼玉県朝霞市の広報誌が2022年3月に面白い記事を掲載していたので、紹介したい。
「主人」・「奥さん」を「見直したい表現」とし、かわりに「望ましい表現」として「夫」・「妻」を挙げている。理由は「男性が主で女性が補助的な役割といったイメージを形成するため」ということだ。
また、配偶者の呼称に関する日経新聞の2023年3月の調査結果によると、こんな具合だ。
いずれも「どう呼ばれたいか」と「どう呼んでいるか」には大きな乖離があるようだ。個人的には、男性による「どう呼んでいるか」の「妻」率の低さ、「どう呼ばれたいか」の「主人」率の高さにやや驚いている。
私自身、こんな(こうして書いたりする)草の根活動をしたいとは、正直全然思っていない。むしろうんざりだ。だが、30代でも友人家族と席を同じくする場で「〇〇の奥さん」な人たちがいるのが、今の私たちの世界。
嫌だと思うなら、できる抵抗をするしかない。抵抗は圧力に対して起こるのだから、構造的に、多数派、特権側、といったアンチが最初から存在する。一方で、抵抗を支持する人も、必ずいる。そういう人を見つけたければ、学び、行動する。ただそれに尽きる。
「○○の奥さん」とはつまり
それは特定の誰かの妻であるという立場を示すものだ。つまり、重要なのはその「立場」であって、その人自身ではない、ということを公言している。あまりに一般的な呼称なので、そんな意図はない、あるいは、そんな風には感じない、という人も多いだろう。しかし、私がその呼び名に呪いをみる理由は、要するに誰でも良い(その立場の人でありさえすれば)と感じさせられるからだろう。「〇〇の奥さん」と呼び、呼ばれるとき、「それはつまり目の前にいるアナタだけれど、アナタが誰かってこととか、アナタであるってことは重要ではなくて、〇〇がアナタと結婚してるってことが、ワタシにとってのアナタのすべてなんだよねー」というメッセージが意図せずとも込められる。相手が夫の友人だったり、ましてや夫の友人の妻だったりすると、尚更だ。
一方で
Googleで「他人の配偶者 + 呼び方 + マナー」と検索すると、冒頭はこんな表示になる。
こういう記載が、それほど多いということだろう。
また、こんな記事もある。
違和感や心配はありつつも、最終的に他に適切な呼び方がみつからない感じがあらわれている。今や古からの課題となっているこの件。おそらく、この一点の問題ではない。ジェンダーにまつわる圧力の枠組みを俯瞰し、複合的に捉えて考える必要があるのだろう。
参考までに、こちらも。今現在の出来事だ。夫婦別姓に反対する人は、きっと「奥さん」にしておきたいのだろうと思う。
「○○の奥さん」と呼ばれた時の適切な切り返し
何かちょうど良いもの言いはないものか。事を荒立てたい意図はない。ただ、既婚者だろうが、親になろうが、なんだろうが、誰しも固有の名前がある。「〇〇の奥さん」は、その人のことを呼んでいるようで呼んでいない。少なくとも、そのことに自覚的であれと思う(自戒も込めて)。夫と共にこの課題について考え、結論、夫が「□□(妻の名前)です」と訂正する、ということに落ち着いた。夫婦が逆の場合も然り。是が非でもということではなく、相手や場合をみて考えながら、抵抗していこうと。黙って返事をしていたのでは、その振舞いや考えをただ肯定したことになる。伝えて理解するか、納得するかは相手の問題だが、せめて意思表示はしていきたい。
「〇〇の奥さん」という人はいないし、同じように「〇〇の旦那さん」もいない。ひとりの「人」がいるだけだ。
精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。