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宿に“泊まる”ではなく、宿を“読む”
小説のような物語を語る宿があるとしたら、ちょっと泊まってみたいと思いませんか? もしそれが、ただ読むだけではなく少しの間、物語のなかで生きることができる宿だとしたら……。
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ストーリーを語る家「神倉書斎」へ
2023年2月21日、午前6時半。生まれ故郷の新宮の街と、その向こうに広がる海に雪が降っていた。本州南部のこの地域で、雪が降ることはめったにない。海の上には雲がかかり、その隙間から朝日が温かい光を覗かせている。新宮にある神倉山からは、街をよく見渡すことができる。
高いところから住んでいる土地を眺めると、普段の生活を俯瞰して捉えられたような気分になる。あの辺りにスーパーがあって、学校があって、家があって、行き交う車のようすも見える。ああ、ここで暮らしているんだなと。
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なるべく目の前のことでいっぱいいっぱいにならないように、現在地を確かめながら過ごしているつもりではある。でも、仕事なり勉強なり、いつも頭の片隅にはやらないといけないことがあって、窮屈に感じている。好きな仕事であっても、自分のキャパが追いつかない。身体の空気を入れ替えて、足りていない好奇心を育て直したい。
「梅の咲いている、今がベストシーズンですよ。」新宮市にある一棟貸しの宿、神倉書斎の留守番役の方(ここでは留守番さんと呼ぶことにする)からそう声をかけていただいたのは、ちょうどそんなタイミングだった。
神倉書斎には、今住んでいる町から車で20分ほどで行ける。近場も近場。なんなら、中学校を卒業するまで暮らしていた街でさえある。それでもワクワクした気持ちになったのは、神倉書斎が、そこに泊まること自体が目的になる、ちょっと変わった宿だからだ。詳しくは知らないが、神倉書斎にはなんらかの物語があり、宿泊することでそれを体験することができるらしい。
以前から気になっていたこともあり、いい機会だと思った。二つ返事で、ぜひ泊まらせてくださいと答えた。
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少し地域について補足すると、新宮市は和歌山県の南部にあり、この辺り一帯は熊野と呼ばれている。熊野は雨の多い地域で、豊かな自然に恵まれている。深い山があり、そこに降った雨は、滝となり、川となり、海に流れ出ては、空に昇りまた雨となって降り注ぐ。
古く、自然に神々が宿るという信仰が根強かった日本では、全国から多くの人々が熊野の地へと足を運んだ。文字通り、車のない時代に舗装されていない道を歩き、数十日間かけて熊野を目指した。人々が行列を成して歩く姿は、蟻の熊野詣とも呼ばれる。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」(通称「熊野古道」)として世界遺産に登録され、現在も国内外から多くの方々が訪れている。
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机の上の手紙
話を戻すと、2月中旬に二泊三日で神倉書斎に滞在することになった。宿に着くと、大学生の頃からなにかとお世話になっている留守番さんが、いつもの笑顔で出迎えてくれた。外観はどこにでもあるような二階建ての民家。カラカラと戸を引いてみると、想像以上に奥行きのあるおしゃれな空間が広がっていた。
ちなみに、宿泊客がいないときは一階のみ会員制のコワーキングスペースのような形で貸し出しているそうで、実際に今回もリモートワークをしながらの滞在になったのだが、仕事環境としても抜群だった。
壁には海外のものらしき本がずらり。押し入れのなかに布団が敷かれていたり、小石が丁寧にクッションの上に置かれていたり、ところどころに気になるポイントがある。
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二階に上がると、一気に昭和感あふれる雰囲気に包まれる。昔ながらの勉強机や、レトロな照明。3時10分過ぎを指して止まっている時計。それに、数か所にピンが押された地図。並べられた大小さまざまな形の石。魚の骨のような、見たことのない文字(?)で記された資料。なにより気になるのは、勉強机の上に置かれた数通の手紙。
徐々にここにある物語への興味が増していく。寝室の窓から外を見ると、聞いていた通り梅の花が満開になっていた。
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家をめぐる物語
ネタバレにならないように物語の概要のみをお伝えすると、この家で少年時代の一時を過ごした「私」の視点と、ある地質学者が仲間に宛てた手紙との、主に二方向からストーリーは明らかになっていく。
遠方に住んでいた少年時代の「私」は、長期休みになると祖母が暮らすこの家に来ていた。あるとき祖母のもとを、地質学者を名乗るAさんが訪れる。Aさんは、新宮周辺の地質調査のためこの土地に来たという。祖母は空いていた家の二階をAさんに貸してあげることにした。最初はAさんに不信感を抱いていた「私」も、徐々に心を開いて調査に同行するようになる……。
同行するうちに見えてくる、Aさんの地質学者らしからぬ不可解な行動。Aさんの正体に迫ろうとする「私」。複雑な思いを抱えながら、Aさんが人生をかけて取り組むミッション。Aさんはなぜこの土地にやって来たのか。読み進めるほどに謎は深まっていくのに、どうしてか、後から心地良さが増してくる。
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活字の物語に没頭できず、学校の読書感想文のために仕方なく読んで以来まったく小説を読んでいないわたしでも、続きが気になって読み進めてしまう。特に手紙は、本来なら自分が読むはずのなかったもの。読んではいけないもの。こういうのって、どうしてこうワクワクするんだろうか。時刻はあっという間に夜の12時を回ってしまった。
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Aさんの足跡をたどる
朝は窓から光が差し、気持ちよく目が覚める。厚みのあるマットと柔らかい掛布団で寝心地も良かった。物語の空気感をそこなわないように、さりげなく加湿器やUSBポートが備えられていて、細部に宿としての気配りが感じられる。
今朝は、どうやら物語の鍵になりそうな神倉山に登ろうと思っていたが、仕事の始業時間までに間に合いそうになかったので明日に持ち越すことにした。天気予報によると、明日の朝はかなり冷え込みそうだ。
仕事をしている間、定期的に重厚感のあるチャイムが鳴っては、子どもたちの声が聞こえてくる。ちょうどいいBGMでもあり、懐かしくもある。歩いてすぐのところにある神倉小学校(旧千穂小学校)はわたしの母校だ。
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昼休憩。少し足をのばして海へ行くことにした。道中、ローソンでコーヒーを買い、ファミーユノートルというパン屋さんでハード系のサンドイッチを購入し、大浜へ。那智浜の爽やかな青も、七里御浜の緑がかった青もいいけれど、小中学生を新宮で過ごした身からすると、海といえば大浜の真っ青な青だ。ちなみに、大浜の海は流れが速く、波打ち際から急に水深が深くなり危険なため泳いではいけないと学校で教えられた。
テーブルになりそうな大きめの石を探し、ランチにする。こういう場所でご飯を食べるときはトンビに注意したい。今日もサンドイッチを狙って頭上をうろうろしている。カツサンドのカツだけ抜かれた、なんて話もめずらしくない。
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わざわざ海に来たのは、やはり物語の影響を受けている。普段は気にとめないような、周囲に転がっている石に目を向けて、この辺りの地質や歴史に思いを馳せてみる。長い間お世話になった土地だけれど、そこにあるものを、ちゃんと見たことはあっただろうか。そばにあるものに、わたしはどんな視線を向けてきただろうか。
物語は徐々に現実に寄り添ってきて、現実を生きているはずの自分はあえて物語のなかに入っていく。面白いならそれでいいと、とりあえず流れに身をまかせてみる。
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いざ、神倉山へ
長めの昼休憩をとったおかげで、夜8時にようやく仕事が一段落した。隣町の那智勝浦町はまぐろ漁が盛んで、日本一の落差を誇る那智の滝や温泉などが観光客に人気の町だ。町内にはまぐろの無人販売所(よく間違えられるが自動販売機ではない)がいくつかある。1パック200円ほどから購入でき、小分けの醤油を置いてくれているところもある。夕飯はまぐろ丼にしよう。
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食後は、お昼のパン屋さんで買っていたラスクをお供に、宿で常備してくれている豆を挽いてコーヒーをいただく。
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(便宜上2枚しかのせていないが本当は5枚食べた。もっというと食前に仕事しながら3枚くらい食べた。)
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秒針の音と、猫の鳴き声がたまに聞こえてくるだけの静かな夜に、残りの手紙を読み進める。夜12時過ぎ、ようやく全部読み終えた。なんとも言えない気持ちで、何度も考察を繰り返す。
怖さと優しさの絶妙なところで、この先はあなたにゆだねますと言わんばかりに渡されたので、寝るに寝られない。決してコーヒーを飲んでラスクをたくさん食べたからではない。
とはいえ、もう寝よう。苦手な早起きと、明日の気温の寒さに少し躊躇していたけれど、やっぱり登らなければいけない。神倉山に。
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この後に見た光景は、冒頭に書いた通りだ。神倉書斎の魅力を端的に表すのは難しい。宿に泊まるというより、物語をひとり占めしているような、ほかでは体験できない贅沢さがある。本を閉じたら終わりの物語ではなく、現実へと繋がっていく物語。
抽象的な言い方になってしまうが、物語の解釈を自分なりに深めるにつれて、とても大きなものに背中を支えられているような、もしくは脈々と受け継がれてきたものが実は自分のなかにも通っているのだと教えてもらったような、安心感と優しさを得た。どうしてそう感じたのか。理由は、神倉書斎に泊まってたしかめていただきたい。ただ解釈は人それぞれなので、宿泊の際はこの記事で読んだことは一旦わすれて、まっさらな頭で楽しんでもらえると嬉しい。
今自分が独りだと感じている人。反対に、独りになりたいと感じている人。もしくは、記憶のなかにぼんやりと残る、そこにあったはずの大切な風景を思い出したい人。そんな人たちの心に届くものが、何かあるのではないかと思う。
宿泊施設としての設備、物語、もちろん留守番さんのお人柄も、総じて大満足のとても貴重な時間を過ごさせていただいた。一つ、宿泊に際しての懸念があるとしたら、神倉書斎を満喫するには結構な時間を要する。短期滞在の方は寝不足になってしまうかもしれないので注意されたい。
神倉書斎のWebサイト
https://www.kamikura-hideaway.art/
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余談ですが、神倉山を下りながら写真を撮っていると、ご年配の女性が声をかけてくれました。538段の急勾配の石段を、息切れもせずにサクサクと歩くその方は81歳の御年だといいます。よくご夫婦で山登りをしていたそうですが、昨年ご主人が逝去されたとのこと。生前に好きだった山の頂上で、遺骨を撒いてほしいというのがご主人の希望なのだそうですが、その女性も体力がなく断念。行く予定のある人に託したいというお話でした。
これもまた不思議な縁だと思い、ついつい「行きます」と言ってしまいそうになったのですが、行ける保証ができない状態で遺骨をお預かりする責任は負えませんでした。話し終えて、またスタスタと下りていくその方の後ろから、ときどき地面に手をつきながらゆっくりと下山する30歳なのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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