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本気で生きていないから本気で死ねない

質問者から: お釈迦様が最後の説法で<自灯明法灯明>と説かれています。これは自分の力で考えなさいと言うことだと思います。それでは自我の強い人は集団に合わず自我の弱い人は集団に流されると言うことなのであれば本当の自我とは一体どこにあるのでしょうか(バランス)?

脳科学者: 若い人にとって自分が大きく左右される要因は社会的役割が<ある場合>と<ない場合>では、 まず自己のあり方は全く違ってくるだろうと思います。
 自分の体験でもそうです、例えば大学で私が助手になった時に、大学院の学生だった時と考え方を全く変えなきゃいけない、つまり大学院生の時と同じ教室にいてほとんど同じことをしているわけですが、大学に就職して給料をもらうようになった瞬間から、突然立場が逆転する、要するにお金を払う人間からお金をもらう立場に逆転したわけです。
 自分の責任で仕事をする助手になったことによって、そこに社会的役割が発生してきた、若い医者の卵に、あんたが<終点になった事ある>かって、よく聞くんですよ。<終点になった>と言うのは医者の場合でしたら患者さんに注射するって言うことです。注射液を間違えてもし患者さんが、死んだらどうするか自分のやったことにどう責任を取るのか、考えたことがあるかと言うことです。社会的役割としての自分が確立しているのは、それをよく責任と言う言葉を使うんですが、それじゃぴんとこない。

 それで若い人にはあなたが<終点になる>と?と言っていました。

 結婚をすると言う例に置き換えればわかりやすいです。結婚する時、最終的に決めるのは、結局自分でしょう。最終的なところを決めるのは私はむしろ外的な自己だと思っているんです。

 学生が本気でやることといったら試験ぐらいしかない。あとは遊んでいる。学生をやって遊ばせておくと言う社会が、腐敗を招いている。
若い人に対して社会的役割を与えないと言う社会が、ここのところ続いている。若者の失業率が高いことは、実はそういうことです。
 なんらかの責任を持たせる立場におけば、若い人は即座に育つのが普通です自分に最終的責任を取る立場を与えられなければ、若い人は育ちません、若い人に最初から自我があると考えるよりは、私は平たく、彼らにはまず責任を与えるべきだっていう気持ちを持っています。

昨日も、大学の先生のお通夜に行ったんですが、本人の意思で無宗教でやっていました。ところが参列者は手持ちぶたさんなんです。あっという間に通夜は終りました。本人が無宗教だろうがなんだろうが、お葬式は生きている人のためのものなんですが、そこをやっぱりもっと言って欲しいです。本人の意思を尊重して葬式を無宗教でやるというのはわがままだよ。 生きている人が気持ちが残っているんだよ。 だから誰かがお経あげてくれれば、それはそれで落ち着く人も何人かいるだろうし。
そういうもんじゃないんですか?

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