鑑真和上の遺跡を再建へ(三宝荒神、五大虚空蔵、如来堂等の60遺跡を調査)
鑑真は、「戒律」、つまり、「悟りを開くための正しい修行生活の規則」を説き、仏教の乱れを正しました。 そして、奈良に「唐招提寺」を建て、日本の仏教の発展に力を尽くしたのです。 その功績を讃えて、758年に「大和上(だいわじょう)」の号が送られました。
今回調査した神社仏閣にかんして寺伝によれば、天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという。『東作誌』のような近世の地誌にも同様の伝承を載せるが、どこまで史実を反映したものかは定かでなく、その後中世までの沿革も明確でない。なお、寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった。
荒神は、仏法ならびに伽藍の守護神のことである。役小角が金剛山で祈祷していると、艮(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠をつくって祀ったという伝説がある。また、荒魂を祀って荒神としたという説もある。後者は、ヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたと解釈される。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。荒神を祀る寺院や神社は日本全国に約300社ある。三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。
不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。仏像としての作例は近世以降のものが多い。『大荒神経』では、姿は天女と記されており、また文殊菩薩、不動明王、ビナーヤキャ(歓喜天)と同体とされ、さまざまな変化神が江戸時代以降、日本各地に祭祀されているという説もある。日蓮宗や法華宗では『御義口伝』の「三宝荒神は十羅刹女なり」の一文に基づき、三宝荒神を十羅刹女と同体とすることがある[1][2]。また普賢菩薩と習合し「普賢三宝荒神」と呼ばれる場合もある[3]。
虚空蔵菩薩の功徳を五方に分けて菩薩としたもの,あるいは金剛界の五智如来の所変。五大金剛虚空蔵ともいう。日本では 9世紀頃から信仰されるようになった。方位によって中央の法界虚空蔵,東方の金剛虚空蔵,南方の宝光虚空蔵,西方の蓮華虚空蔵,北方の業用虚空蔵(ごうようこくうぞう)があり,それぞれ色や持物によって区別される。京都市の教王護国寺(東寺)観智院の木像は 9世紀中頃の作で唐からの請来像。
広大な土地に60余りの神社仏閣があり、鑑真が天皇の指示で作った当時は壮大な街並みと豪華な神社仏閣がありました。不動明王像、十一面観音像など多数の御神体がこの地に埋もれています。千二百以上昔の遺跡を再建するのは、大変難しく
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