15歳だったのは16年前です
バイト先で店長からボジョレー・ヌーヴォーをもらったので、晩酌をする。
ワイン通の親友に引っ越し祝いとしてもらったワイングラスを唇に当てると透明さそのものに触れているような気持ちになる。
酒は好きだがしかし弱いのでぼんやりした頭で読み始めた本のことを考える。
九鬼周造の『「いき」の構造』は内容というより書かれている言葉が難しい。
「こういうの、わざと内容をわからせないように書いてるんじゃないのか」と思う心は15歳の時と変わらない。
「でも実際は抽象芸術と一緒で、正確に表現するためにこういう書き方をするしかなかったということなんだろうな」と思う31歳の私。
ホドロフスキーが「私の中に10歳の私と25歳の私と81歳の私がいるのです」と言っていた言葉にも深くうなづく2020年の秋。そして時は2020。
「ベルクソンは、薔薇の匂を嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂の内に嗅ぐのであるといっている。薔薇の匂という一定不変のもの、万人に共通な類概念的のものが現実として存するのではない。内容を異にした個々の匂いがあるのみである。」(九鬼周造『「いき」の構造』p.18 岩波文庫)
この一節だけでもかなりとっつきにくく、何度呼んでも「裏の裏は表」みたいな言い方でけむに巻かれているように感じるのだが、かろうじてわかるところだけ汲み取ると、「私たちが「薔薇ってこういう時の匂いだよね~」って共通の薔薇あるあるを探ろうとするのは無理のある話で、私たちにとって薔薇の匂っていうのはそれぞれすごく個人的なことなんだよ。だから薔薇の匂いあるあるを探ろうとしてもそれは「あるあるっぽいもの」でしかないんだよ」ということを言っているのだろう。
たしかに。
「ファーストキスはレモンの味」って言い始めたのは誰だ?ってっことだよね。
レモンから思い起こすものは私たちはそれぞれ違うはずなのにね。
でも、匂いがないはずのものはどうなんだろうね?
例えば朝の匂い。
「朝は素敵 いつも 夜は不思議 いつもそう」
私は朝に窓を開けるといつもこの詩を思い出す。
特に冬が近くなった日の朝。
最近の朝。
湿気を含んだ静かな朝日。
あわただしく静かな朝の街の匂い。
16年前に学校へ向かう道すがらに感じたのも確かにこの匂いだった。
朝はそれぞれに違い、街もそれぞれに違うはずなのに、どうして感じる匂いは同じなんだろうか。
この匂いを感じているのは私だけなのだろうか。
こういうとき、私たちは本当に別々のものを感じているんだろうか。
『「いき」の構造』の本文にも岩波文庫の表紙のリード文にも「日本民族」「大和民族」なんて言葉が出てくるんだけど、朝の匂いにもそんなものが持ち込まれてしまうんだろうか?
歌人の千種創一さんが、いつかのSNSで「アラブ人にくるりの「ばらの花」の歌詞を訳して読ませたら、「このフレーズが一番美しい」と指さしたところがこれだ」と紹介していた部分は、私も一番美しいと思うところだったんだよ。
「だけどこんなに胸が痛むのは 何の花に例えられましょう」
これ以上ないと思うほど愛した人と、心が離れていく日々のこと。
失われていく愛の痛みととはるか遠い過去の美しさ。
そういう瞬間の形や香りが、果たして民族なんかで隔てられるものなんだろうか。
そうではない、と今の私は思う。
そしてずっとそうあってほしいと願う。
私たち一人一人がどんなにしょうもなくて個別に隔てられたか細い存在でも、イデオロギーやナショナリズムに呑まれやすいしょーもなさと軽薄さを持っていても、「ああ、あの美しさと痛みは薔薇そのものだよね」と響き合えることを覚えていたい。
ところで、『「いき」の構造』はそんな話をしている本ではないのだけれど。
最近読んだ上村五十鈴さんの『星の案内人』というマンガに、「人の子は死なない。自分よりも大切な存在へと魂を分け合いながら生き続けるんだ」というような話が出てきたのだが、本当にそういう気持ち。
人間は案外賢くもないし肝心なところでいつも無力だけど、自分以外の存在に魂を与える力だけは授かっているのだよ、と先人の叡知はいつもささやいてくれる。
その力は「愛」という名前なのだということも。
問題は薔薇の花が枯れるように愛も枯れると思ってしまうこと。
目を向けるべきは枯れた後に種が育ち新しく生まれる循環なのにね。
こういうとりとめのない話を、友達に直接会って話したいな。
いつまで続くんだよこの状況は。
早くみんなでいつものカウンターを囲んでボジョレーが飲みたいよ。
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