小西行長の物語 後編
熊本と言えば熊本城の加藤清正。それは肥後人の心に刻まれてる。小西行長の存在は薄く、どこか忘れ去られてる気がする。感情移入かなぁ。。。少し寂しい。
前編と中編では出世して登りつめてきた行長が、後編の3つの戦争を
通して、低く低く降っていく姿をみる。
小西行長の物語 中編
高山右近はまだ若い日に、権力者の歯車にはまり生きることを棄て、信仰の自由を生きた。
一方行長は、歯車として生きてきた。そこには苦悩や自責の念、ストレスは多くあれど、野心の方が勝っていた。
ところが権力者 秀吉は、やがて行長達を乗せた暴走列車となる。
明国(大明帝国)を我が手にという無謀な夢を見るようになる。海外侵略である。
秀吉の暴走の理由には諸説があり、明確にはわかっていないようだ。
けれども、あろうことかその最前席に行長を乗せるのだ。
行長はただの歯車でいることはできなくなる。
「面従腹背」秀吉には従うと見せかけ、内心背く生き方を決断していく。
この時もしかしたら、右近を羨ましく思ったかもしれない。
今更、列車からとび降りる事はできなかっただろう。
この秀吉の作戦を憂慮したのは、行長だけでなく他にもいた。
けれども暴走する秀吉、その「猫の首に鈴をつける鼠」は現れなかった。
島津家の侍から起きた反対運動に、町人、庄屋、農民も加わり加藤清正領内に攻め入るが鎮圧されている。
戦争で家族を失う、そして疲れ切った人々はこれ以上疲弊していく事を恐れたに違いない。
堺や博多の商人らも貿易ができなくなること、その経済の打撃を心配した。
ただ、軍需産業の利益に期待する者もいたようだ。
博多商人の島井宗室は1人、秀吉に物申し疎んじられた。
九州と朝鮮半島の間の海峡に、対馬がある。
産業の乏しいこの島は対馬海峡を使い、朝鮮との密貿易でかろうじて生き伸びてきた。
小西行長は、対馬の宗義智(そうよしとし)に自分の娘・小西マリアを嫁がせている。
この2人の中に、秀吉を裏切る密約、協力関係は交わされたと思われる。
また、義智は洗礼をうけている。
さらに心同じくする、島井宗室ら博多商人達、平戸松浦水軍と結束する。
1592~93年 文禄の役
豊臣秀吉の目的は、「明」の征服だった。
朝鮮半島に対して「仮道入明」(かどうにゅうみん)を願う。
明に侵攻するための、朝鮮領内の道の通過と誘導を許可しろという内容。
そのため朝鮮半島に軍勢を送る。
行長は秀吉の意に反して、講和路線だったので、朝鮮に敵意がないことを必死にアピールする。
通るだけだからと。
しかし、朝鮮は憤り「明は我らの父母の国、死んでも従わない。」と一貫して強行的だった。
朝鮮自身が緩衝地帯の小さな国土なのだ。
大国の明を裏切れるはずもない。
朝鮮は明の藩国と考えられていて、それを受け入れてたようだ。
朝鮮軍は、半島から内陸へ、奥へ奥へと逃げ込み、明に援軍を要請していた。
行長は朝鮮代表と交渉したくも、その相手と出会う事さへできなかったのだ。
行長らも奥へ奥へと追いかける。
戦うことなく、ソウルに到達した。さらに平壌へ。
でもこれは陥落などとは言い難い虚しいものだった。
行長は、秀吉の明国制覇の壮大な夢が幻想で「朝鮮出兵は無謀」と元々思ってた。
そしてその後、軍監として朝鮮入りした石田三成も、現状を目の当たりにし、意見が一致するようになった。
朝鮮は大陸と陸続きで、大陸は限りなく広い。
城に追い詰め、籠城戦という日本の戦法は効かない。
行長と三成は、秀吉の意に何とか逆らわない形で秘密裏に明と外交交渉で「早期講和」を目指すことで一致する。
しかし、これに真っ向から反対したのは加藤清正・福島正則の「武断派」の武将だった。
あくまで秀吉の命令、朝鮮・明との合戦・占領を目指すべきと主張する。
もともと武断派は、秀吉が中央集権化を進める最中から、国政に「なぜ、石田三成ばかりが重用されるのか?」と石田三成や大谷吉継ら「文治派」に憤っていた。
小西行長は、海運担当をしていたので石田三成に近かった。
この戦争でも、秀吉から行政官的役割を任されている。
清正ら武断派との対立は避けられなかった。
清正は戦国の世を、ただ主君の命令は絶対であると信じ、走り抜いてきた生粋の軍人だった。そして幼い頃から育ててもらった。言葉悪くいうと子飼いだ。
天草での、天草五人衆の制圧の時も行長と清正が、そのやり方を巡り対立した。
行長の軍は1番隊、清正の軍は2番隊だった。
行長はなんとしても、清正に追いつかれたくなかった。
その理由はただの競争心ではなかった。
秀吉の信書の内容を書き換え、敵が受け入れ、講和しやすいものにすり替え、また秀吉への折々の報告にも虚偽があったという。
両方に嘘をつきなんとか講和に持っていこうとした。
それを清正に知られ、さらに秀吉に知られる事を恐れただめだ。
「服従するふりをしながら、密かに騙す、これがただ一つ、行長にとって太閤の操り人形になることからの逃げ道」遠藤周作はそういう。
1593年 沈惟敬(しんいけい)
明の遣いが、平壌の行長の元にくる。協議し、日本と明の間で50日間の休戦協定を結ぶ。
行長は信じたが、これは時間稼ぎの欺きだった。
明朝鮮連合軍が攻めてきて、日本軍は敗退。ソウルに撤退。
1593年 セスペデス宣教師を朝鮮に呼び寄せる。
キリシタン武士達が、戦地でミサと告解が続けられるようにと。
けれども清正の密告で、翌年には日本へ帰っている。
1593年 碧蹄館の戦い
明軍はソウルまで攻めて来るが、この戦いで明は、打撃をうける。
これは、明が日本との講和を探るきっかけとなる。
日本軍も、食料調達が困難になる。ストレス・朝鮮半島の冬の寒さ・伝染病の蔓延。
明軍によって食糧貯蔵庫が焼かれてしまい、2ヵ月分の食料が灰と化す。
日本軍は、釜山に撤退する。
いよいよ日本と明国、両者に講和交渉が始まろうとしていた。
けれども秀吉が明に突きつける7か条の条件は、明にはとうてい受け入れ難い内容。
それは明らかだった。
このまま出すわけにはいかない。
互いの国の平和と繁栄(戦争の終結と貿易開始)という大義名分は、キリシタンの行長の中に確かにあったとは思う。
けれども、それだけでは収めきれない小狡さ、計算、欺きが行長にはあった。
行長は、明国の沈惟敬と共謀した。互いの主君を欺き講和に持っていくため、秘密文書を作る。
講和条約の内容を書き換え、秀吉の謝罪文まで偽作する。
あろうことか、戦いが終結した暁には、自分とその仲間達が日本国内で優位な地位を、明国に保証してもらえるような。。。
もちろん行長1人でできる訳はなく秀吉のブレーンのいく人かも、この非常手段に見て見ぬふり、黙認した。
この後の行長の人生は、清正や秀吉にバレないように、嘘を隠すための嘘を重ねていく。明国を宥めながら、老いた独裁者秀吉の死期を待つ。辻褄合わせで乗り切り、新しい時代は自分達のものと思ってたかもしれない。ウルトラCはいいけど安全着地は大変だったのだ。
1596年慶長伏見大地震が起きる
明国の冊封使が謁見を受けるはずの伏見城天守閣ほか全ての建物が大破してしまう。
大地震の翌月、明国使節、朝鮮使節が大阪城🏯へ、冊封使としてやってくる。秀吉は明国には一応の理解を見せたが、朝鮮使節には会う事もしていない。そして3日目に突如、朝鮮出兵を宣言した。
秀吉は清正に教えられ、行長の背信を知る。激怒し死刑宣告をする。
しかし淀君や前田利家が宥める。「淀君がこの事件の張本人はこの自分であると告白した」という文書もあるという。
秀吉はこの欺瞞の背後には、行長だけでなく、奉行やその他の有力な支持が多数あった事に気がつき、愕然とする。
行長を処罰することの波紋を恐れた。それは自ら豊富政権を揺るがす事になる、そう考えたかもしれない。
こうして講和条約は破綻した。
1596年 サン・フェリペ号事件
スペイン船が土佐に漂着。その乗組員の言葉に秀吉が激怒。それは再びキリシタン大迫害へと向かう。
1597年 26聖人の大殉教
26聖人について、いつかはかいてみたい。。。
この時、キリシタンではなかった石田三成と前田利家は、秀吉のキリシタンへの怒りを和らげるため、並々ならない努力をしたという。
宣教師の助命、残酷な処刑方法をできるだけ緩めて欲しいと願ったという。資料にはないが秀吉の怒りを勝ったばかりの行長が、自分では言えず、三成らに頼んだのかもしれない。
1597年 慶長の役
行長、清正共に再び出兵する。
行長はこの時、敵方にむしろ自分達が不利になるような情報提供をしたという。
1598年 豊臣秀吉死去。
この知らせを、朝鮮出兵の最中に受けた。この時の行長の心情を遠藤周作がこう書いている。
「自分の人生を支配し、その野心の操り人形として自分を駆使した老人は、もうこの世にはいない。どのような感慨と思いとが、行長の胸に去来したことであろう。
深い疲労感と共に、全てがやっと終結したのだという感情が胸にこみあげたのであろうか。あるいは、いいようのない空虚感も同時に噛み締めたであろうか。」
行長は朝鮮とすぐ和議交渉を申し込むが、朝鮮側に暗殺を仕掛けられる。朝鮮水軍がまだまだ抗戦的だったのだ。
1598露梁海戦(ろりょうかいせん)
露梁海戦は、日本と明朝鮮の双方が勝利したと認識している。明朝鮮は待ち伏せしたが行長軍を取り逃がした。行長軍は撤兵は成功させたものの、夜間の戦闘は終始不利であった。双方とも被害甚大の痛み分けだった。
豊臣軍は朝鮮侵略に失敗。 秀吉の求心力は低下した。
1598年行長41歳 日本軍が撤退し、行長も帰国する。明朝鮮との和議は失敗した。
対馬海峡での貿易、戦後の外交と通商の支配権を握ろうとした行長の夢は終わった。行長は挫折した。
秀吉なき後、豊富政権は戦後処理を巡り、三成派と反三成派に分かれる。この時を待ち続けてきた家康が動き出す。
前田利家亡き後、三成を憎んでいた加藤清正・福島正則・細川忠興らが、石田三成を襲撃した。
行長は「勝ち目なき戦い」と知りつつも、朝鮮出兵で心強く結ばれた石田三成と共に西軍として関ヶ原の戦いに参戦する。
1600年 関ヶ原の戦い
「天下分け目の戦い」と言われた戦争に、行長は西軍として石田三成と参戦した。しかし苦戦の末、敗退した。
行長は伊吹山(岐阜県)山中に逃れた。今でも行長が隠れていたと言い伝わる寺があるという。
戦いのあった5日後、行長は僧と落人狩りの林蔵主に、自分の身を明かす。自害すれば簡単なのだが、キリシタンなので捕えられることを望んでいると告げた。この5日間何を思い何を決断したのだろうか。家康のもとに自らを連行して欲しい、そして褒美をもらうように求めた。
村越茂助の宿まで馬で連行され、ここで縄と首枷をはめられる。
林蔵主には金貨10枚が与えられた。
遠藤周作も言うが、イエスキリストが、黙々と十字架を背負い、処刑所へ上っていく姿とだぶる。
その2日後三成が、その翌日には安国寺恵瓊が捕らえられる。
行長の首には鉄枷がはめられた。生きてるだけがやっとのボロボロの身、この首枷を除いて欲しいと頼むが外されなかった。
首枷はまるで自分の人生のようだ、良い事もしたが、根底には俗的野心があった。それがいつも自分を不自由にし、首に肩に食い込んできた。けれど今キリストの十字架の前にその荷物を解きおろす時がきた。そこに永遠の安息があるのだ。
行長は黒田長政に、罪の悔い改めと赦しを受けるため、神父を呼んで欲しい頼む。それがたった一つの願いだというが、叶わなかった。
10月1日処刑当日、大阪と故郷の堺を鉄の首枷をはめられ市中引き回しの後、京都の六条河原に連れ行かれた。
刑場には数万の大群衆がいたが、群衆をかき分け、1人のキリシタンが行長に近づいた。
イエズス会の神父達はあなたとの面会のため、あらゆる方策を尽くしたが許されなかったのだ、と告げる。
行長は言った。
「私は獄中で、罪を償おうと努めてきた・・・ここ数日来、自分の罪のため神からこの上ない苦しみを受けている。しかし救いの確信を持ち、慰めをうけながら喜んでこの世を去ることができるのだ。」
この時、僧が現れ説教しようとすると、行長は大声をあげてこれを断り「私はキリスト教徒だから、なんの関係もない。私も天上に憧れているが、彼らの望む天上の生活と一緒になりたくない。」そう言ってロザリオを手にして大声で祈った。
また高僧が経を頭に戴かせようとしたが、この時も体よく断った。
今、鉄の首枷を外す時がきた。彼はもうただ一つのことのほかは、何も望まない。彼の鉄の首枷だった野望も野心も消え去った。今まで肌身離さなかったキリストの絵を行長は両手で捧げ、3度頭上に頂き「清朗な顔でしばらく天を見上げ、絵を見てから介錯人に首を差し出した。」
行長が妻と子どもたちに宛てた遺言状には、以下のように記されていたとある(1600年度カリヴァーリュ日本年報補遺『報告集』1)。
「今後は汝らはすべての熱意と心の緊張をもってデウスに仕えるよう心掛けて頂きたい。なぜならこの世においては、世の中のすべてのものが変わりやすく、なに一つとして永続するものはみられぬからである」
イエズス会側の史料によると、行長の遺骸は教会に引き取られたようだが、どこに埋葬されたのかはわかっていないという。