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名のなき墓石が語る十字架*山鹿編

月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。

今回は山鹿市鹿本町に、キリシタン達の足跡👣を探しに出かけます。
山鹿旅は2日に渡り出かけたので、写真の並びが時系列と違うかもしれません。どうぞお許しを💦

今回は緑色🟢山鹿市鹿本町です



「小西行長の供養塔」

熊本菊鹿線を北上。
山鹿市を目指します。
山のある風景は大好き🥰
菊池川にぶつかったら川に沿って
西へ西へと走ります。
あと300m先を右折。
菊池川の橋を渡ります。
ちょっとだけ車🚗から降りてみた。
土手の向こう側に小西家の末裔の方々の
暮らしの場所があるんですね☺️
橋からの眺め、川の流れる音
そして山々が美しい。
ひときわ趣きある家屋の一角に
小西行長供養塔があります。
この畦道の奥です
見えてきました
台座の説明文
小西行長は、泉州堺の豪商小西隆佐の子として生まれ、年若くして秀吉に仕え、数々の戦功により宇土城二十四万石の
城主となった。関ヶ原の戦いに敗れて、
京都六条川原で刑死する。宇土城開城と共に、家臣は、行長の弟隼人の遺児忠左衛門を伴い密かにこの地に
隠れ住み姓も小材と改めた。
昭和36年県文化財保護委員原口長之氏の調査により、石碑の下端にクルスの十字が陰刻され、貴重な隠れキリシタンの遺跡であることが分り、昭和56年町指定有形文化財となった。碑の前面には
慶長五年西岳院殿行長即得大居士
10月6日と記され行長の死後、直ちに建てられた供養碑である。小材家では毎年一族相集い、先祖祭を行い供養につとめている。この碑もその浄財により建立したものである。昭和60年11月23日
小材誠也識 佐藤正徳晝
白い柱の横側の説明にこうあります。
『キリシタン大名であった小西行長の死を悼んで、行長の家臣やキリスト教信徒たちが立てたと伝えられています。塔には慶長五年(1600年)の銘があり、石碑の下面には十字の刻印があります。』
今でこそ、立派な供養碑があるが、当初はこの石だけが立っていたのだろう。

1600年の関ヶ原戦いで破れ、10月1日に京都六条川原で行長は刑死した。家臣達は只ちに、5日後10月6日には、行長の弟隼人の子・忠左衛門を連れてこの地に隠していた。そして、行長を悼んで
10月6日に建立したのがこの供養塔。
塔は高さ 1m25cm、56cm 、厚さ 13cm
の凝灰岩で、台座の中央繰込みの中に差し込んである碑石の下端部に、十字架を陰刻してある。すなわち隠れ切支丹
「行長どんの墓」として今に及んでいる。
立ち去りがたくて、振り返ってみている。
小材家の蔵。美しい。
よく整備された田畑


宜しければ↓↓↓のぞいてみてください


この地域は鹿本町中川、この後行きたいのは鹿本町中富だ。
すぐ隣りの集落なのだけど、わからない💦💦💦
しかたなく近くにあったお家に
ピンポンしてみたが留守のご様子。
すると道の向こうにお爺さんが歩いてた。厚かましく近づいていくと、とても親切に教えてくれた😊☺️😭
いい人だなぁ〜〜
この辺には小材さんの家が多い。
「もしかしたら、まさか。。。
まさか!あなたは小材さんですか?」
聞きたいくらいだったけど。。。
流石に聞けなかった😞😞😞
初対面なのにドン引きされてしまいそうだし。。。

そしてお爺さんに教えていただいたように行ってみると、本当にそれがありました。

「マリア観音像」

マリア観音像といいます
1635年頃からキリシタンの取り締まりが厳重になり、信者たちは怯えながら、
あらゆる工夫をしては密かに信仰生活を
送り続けていた。
この観音像は、村の両助という信者が
観世音菩薩に見せかけて、
キリスト教信仰をしていたのだ。
像の頭部に十字架を彫ってある。
最初はキリシタン信仰のための
隠しマリア観音像であったが
いつのまにか子育て観音として拝まれるようになり、現在に及んでいる。
クリスチャンの私にとっては
少しだけ悲しいことだが。。。


キリシタン研究者の高田重孝先生より
いただいたお写真となります
後ろに十字架が見られます


「マリア像絵踏」

この鹿本町中富には、実はもう一つ「マリア像踏絵」というキリシタン史跡がある。
中富村は、小材家(小西家臣達)のすぐ隣りの集落で、この一帯は、天草・島原のようにキリシタンが多数いたと思われる。

1637年10月に起きた島原の乱に懲りた徳川幕府は、キリシタン探索、賞金や絵踏制度をより一層強化し、資金を投じ組織的に絵踏を行った。
キリシタンの多い旧中富村地域は、小西行長の影響を受けた天草・島原地方のように、キリスト信者が多かったため、他の地区以上に取締り弾圧が厳しかったらしい。
この「マリア像踏絵」はキリシタンを発見して逮捕するために、マリア像を刻んだ板絵で、郡代 斉藤形衛門の命を受けて上中富村の庄屋新助が、1652年に備えつけた。
村人にこの絵を踏ませたが、信者は像を踏むことを拒んだので、直ちにキリシタンだとわかってしまったという。

当時の踏絵について
踏絵の裏面墨書でこう記載あり。
「江戸時代承応元年壬辰(1652)8月
耶蘇宗徒捕搜 郡代斉藤形衛門
上中富村庄屋新助」

形状は下記。
長さ23. 3 c m
巾 11.5cm
厚さ 5.8cm

<補足>
この踏み絵は、この地域の光伝寺に置かれていたが、光伝寺は平成に入ってから廃寺となり、名残としての石塔が一つ残っているだけとの事だ。

中富にあると思うが
今回私は見に行ってはいない。





「下高橋の高札場跡」

ここは必ずしもキリシタン史跡ではないが、山鹿の人々はこの高札場(こうさつば)で幕府の禁教令を知った。
高札というのは人々に守らなければならない法度(はっと)や掟書(おきてがき)を、板に墨で書き、人目のつきやすい高い所に掲示したものをいい「たかふだ」ともいう。
高札を人通りの多い四辻や、街道沿いに掲げるために決められた場所が高札場だ。
全国どこにでもに「札の辻」という地名が残っていたら、そこは高札場だったかも。。。

用語について

バテレン・・・・・・・・宣教師のこと
イルマン・・・宣教師に次ぐ位の修道士
立ちかえりの者・・再び信仰回復した者
同宿并宗門・・・・・・・伝道師と信徒
奉行・宗門改役のことで宗門に対する警察・司法の権限を持つ


銀500枚の価値って?
銀1枚は、銀43匁(もんめ)としてる。金1両を銀60匁として換算すると、銀500枚は、およそ350両となる。金1両の価値は、時代によって大きく変わるが、現在の貨幣価値で1両10万円とすれば、3500万円以上となる。。。。。。。
お米に概算すると、銀100枚は米142石に相当する。米1石は150キログラムで、およそ大人が1年に消費する量だという。(金銀の交換比率は時代によっても大きく変動がするためあくまでも試算)


この高札場に人々は集まり情報交換や
世間話しをした事だろう。
キリシタン達は禁教令について、ここで知る。この場所にはきっと様々な
ドラマが起きた事だろうか。
寛永年間、山鹿郡中村手永会所の
四枚立て御高札の跡で、享和四年二月、(1804年)庄屋甚兵衛が建てたもの。


そして現在です。。。行ってみます。

字がかすれてしまっていますが、
健在です。古き良き佇まいは
残されていますね。


「豊前街道*豊後街道の交差点」


肥後は、大分県に向かう豊後街道(阿蘇を経由する厳しい道だったかな?)と、福岡に向かう豊前街道(薩摩街道ともいうよ🍠🍠🍠)の出発地点、交差点だった。
江戸時代の参勤交代に使われた街道沿いには宿場町がおかれ、賑わいをみせた。
山鹿はそんな宿場町として栄えた。
今でもたっぷりと風情を残す街並を歩いてみる。


豊前街道沿いの八千代座通り
歴史的街並の始まりです。
灯籠もなか🍵のお店と
その奥には山鹿灯籠民芸館がある。
お花屋さん花日和💐も趣きあって良き。
その奥には山鹿灯籠を買えるお店がある。
奥に見える石門が素敵です。
左の石柱に豊前街道山鹿宿
細川綱利公初の参勤交代街道とある。
和な感じのカフェも見えます。
山鹿灯籠師の説明板
説明板 豊前街道
BUZEN KAIDO ROAD
豊前街道は藩政時代熊本城下と
小倉を結んだ主要道路で
豊後街道と共に参勤交代のルートとして
よく知られています。
また、細川忠利公が肥後国に入る際
肥後国での最初の一夜はここ山鹿湯町
だったのです。  山鹿市
角を曲がると八千代座が見えてきた。
白い蔵が素敵です
左は菊池川流域稲作の説明
右は八千代座の説明です。
江戸時代、人々は娯楽を求めてここに
集まった事でしょう。
堂々としていますね☺️
灯籠娘の像
山鹿のさくら湯♨️
2階には小さな資料館があります。
小倉城から熊本城へ転封した細川忠利は豊前街道から熊本入りし山鹿で一泊、山鹿温泉を大変気に入り1640年、山鹿に茶屋を新築した。茶屋とは藩主や役人が参勤交代の時、宿泊できる施設。などの説明があります。
山鹿温泉♨️の歴史を平安初期まで
遡って説明しています。
敷地内の薬師寺
タイムスリップ☺️
湯上がりは菊鹿町の名物「栗」最中アイス
泉質は無色透明ですが、トロトロした湯体の芯まで暖まります。♨️
なんといってもレトロな内装が最高😀
他で経験できないタイムスリップ感です。
すでに暗くなり、ライトアップで
気持ちもアップ⤴︎⤴︎⤴︎
キリシタン達もきっとこの湯に
浸かりにきたことでしょうか。
夏の風物詩『山鹿灯籠まつり』と対をなす、冬の祭典『山鹿灯籠浪漫・百華百彩』。和傘や竹灯りのオブジェがレトロな町並みを色鮮やかに彩ります。
山鹿温泉郷ホームページより

川本氏の参考文献について
<参考文献>
「菊池市史」「山鹿市史」「鹿本町史」「旭志村史」「菊地市の文化財」
「山鹿市の指定文化財」
菊池歴史研究会提供の資料
「日本史要覧」
日本史広辞典編集委員会編
「恵みの風に帆をはって」
「まるちれす」編纂委員会編
「キリシタン地図を歩く殉教者の横顔」
日本188殉教者列福調査歴史委員会
イエズス会日本管区
[イエズス会の歴史]
「アジア・キリスト教の歴史」
日本基督教団出版局編


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