私的プロレススーパースター烈伝⑪藤原喜明
今回は”関節技の鬼”組長こと藤原喜明選手のご紹介です。藤原組長は1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門。そして入門の10日後である同月12日に和歌山県白浜町坂田会館の対藤波辰巳戦でデビューしています。
新人時代からカール・ゴッチさんに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学んでおり、1975年の第2回カール・ゴッチ杯で優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかけていきました。
その腕前を買われアントニオ猪木さんのスパーリング・パートナーにも抜擢され、海外遠征にも同行しましたが、ずっと前座戦線でくすぶっていました。そんな組長に転機が訪れます。
1984年2月3日の札幌中島体育センター大会において、タイトルマッチ直前の花道で、7長州力選手を襲撃、テロリストとして一躍脚光を浴びます。以降、長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になり、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」にも毎回登場するようになって、独特の人相やファイトスタイルも相俟って一躍知名度が上がったのでした。
同年6月に第1次UWFに参加。持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集めました。
新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂するという、2度に及ぶレスラーの大量離脱を経て、団体としての機能を失って以後はフリーランスとして、今もなお選手活動を続けています。
その技術を見込まれ、男女問わず指導を請う後輩レスラーも多く、指導者としては「指導を受けるレスラーに苦しい思いをさせることで、その辛さから逃れるために楽をすること(つまりテクニック)を身に着けるように促す。テクニックを覚え始めたそこから段階を踏んで、教えた後でいけるなと思ったら格下とスパーリングさせ、そこで技が面白いように決まったらコーチの仕事は90%終わりである」という考えの持ち主なんだそうです。
「使う技すべてが得意技」という組長ですが、代表的な技をあげるとやはりその名に由来した技名フジワラ・アームバーの名前で、世界中のレスラーに用いられている脇固めになるでしょう。特にWWEなどでは試合した記録がないはずの組長の名前が盛んに英語実況の中でも登場する事実が、その影響力の大きさを物語っていると思います。