2020文藝賞『水と礫』を読んでたまげて歓喜したはなし
2020年の年末も年末。一冊の小説を読んだ。素晴らしいデビュー作にであった驚きと、喜びを記録しておく。
藤原無雨『水と礫』(みずとれき)、2020年文藝賞受賞。
読みはじめて、びっくりした。これは事件だ。ラテンアメリカの小説を読むときの手触りがそこにはあったから。これは、僕たちの文学じゃないか。藤原さんという人は、友だちなんじゃないか、とおもった。
この『水と礫』という小説は、いま、ニホンの作家が日本語で書いている。たしかに、「東京」という場所が小説には書き込まれている。だけど、この手触りは。
カタカナのあだ名で呼ばれる登場人物。カギ括弧なしで描かれている会話の質感。主人公の血族をめぐり永遠に増殖していくかのような神話的な語り。異国的な砂漠の街の風景。なめらかかつ唐突な幻想的描写や暴力的描写……。こうした諸要素は、ラテンアメリカの小説をはじめて読んだとき、心底びっくりした、あのときの手触りをおもいださせた。
藤原さんは受賞インタビューで、好きな作家を何人か挙げている。ルルフォの『ペドロ・パラモ』、ガルシア=マルケス、カフカ。そして、ぼくの知らないロシアやイタリアの作家…。ペドロ・パラモ! やはり!というべきか、なんと! というべきなのか。こういう作品を書き、そしてペドロ・パラモを一番に口にする同世代の小説家が登場した。藤原さんは1987年生まれだ。興奮せずにはいられない。
深く共感し、驚嘆する。
日本語の書き手が、翻訳された外国の小説にあこがれるとき、その世界と文体をそのまま引き写すことはできない(翻訳された小説の新鮮味は、翻訳文学という日本語で書かれたもののなかにこそあるのにもかかわらず)。たとえば、カタカナの名前の人物を登場させることだって簡単ではない。そのためには、作家の発明、作品ごとの仕掛けが必要だけれど、『水と礫』ではそれが成り立っている。これにはびっくりした。
日本語名を持つ登場人物が散見される一方で、ラテンアメリカ風の響きをもつカタカナのあだ名をもつ主人公たち。その名前が葉巻と結びつけられているということ。葉巻をはじめとした、現実世界の物品、商品名を描くこと、描かないことの巧みな操作。東京という場所と異界をシームレスにつなぐ手法。そして、『水と礫』というタイトルが示す、じめじめと湿っている場所と乾いた場所という対比。物語をつらぬくこの指標によって、のびやかに異国的な空間とマジックリアリズム風な語りの場を生成させながらたしかにニホンという場所についての文学でもある、というはなれ業を作者はやってのけている。湿っていること、乾いていること、という対比はこの作品の簡潔な文学観の表明のようにもとれるし、『水と礫』というのはこれしかないというタイトルだ。
ぼくはこの小説が実現している、とても風通しのよい空間に共感するし、支持する。なんだつまるところは根も葉もないファンタジーじゃないか、という批判がたぶんあるとおもう。たしかに、それは半分は本当だ。私小説的では決してないこの小説が、かといってマジカルな描写を通して現実の政治や歴史と格闘しているわけでもないことは事実だし、それはこの小説の弱みといってよい。東京というじめじめ湿っている場所=現実という場所への否定と想像力による逃走に、作者の実感が感じ取れること。かろうじてそのことを土台にして、このはなれ業は成り立っている。根も葉もあるファンタジーでありえている。この仕掛けは一回きりのものだから、作家は次作ではまたあらたに語りの装置を発明しなければいけない。次作が楽しみだ。
2020年は、思いがけず東京オリンピックが幻となった年号、コロナ禍におそわれた年号として記憶される。個人的には、ひとりの作家の誕生に立ちあった年号としても記憶される。
ラテンニホン文学事始めの年号だ。
藤原さんがインタビューで挙げているほかの小説。ブッツァーティ。イブラヒーム・アル・クーニー『ティブル』という、サハラの遊牧民の作家が書いたという作品。ヴィクトル・ペレーヴィンの『チャパーエフと空虚』。これらも読んでみたい。
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