認められたい
監督に認められたい。
仲間に認められたい。
世間に認められたい。
誰かからの承認なしに自分のことを”いい”と思えない。誰かから承認されるかどうかが、行動の基準。いつもがんばっている。身体が休まらない。自分の本当にしたいことがわからない。
このときはこうしようとシュミレーションが止まらない。あのときあれは正解だったか?反省会が止まらない。頭が休まらない。身体も強張っている。
そんなあなたは、自分の価値を自分で認めることが苦手で、無価値観の強い人。
競技場面、監督という存在に限らず、暮らしの中の些細な場面でも、他人からの賞賛や、承認なしに自分のことを「いい」と思えない。
できると褒められたけれど、できないと怒られてきた。勝つと称賛されたけれど、負けると罵倒された。それが理不尽であったとしても、黙って受け入れてきた。耐えることが美徳だと思い込んできた。
うまくいっているとき、心のどこかで、認められていない人のことを馬鹿にしてきた。
幼いころ、なんでも上手にできてきた。いつも褒められてきた。いつも結果を出してきた。褒められることが嬉しかった。だから、結果が出るよう努力し続けてきた。がんばってきた人。
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承認欲求は多かれ少なかれ誰にでもある。
だから、承認欲求そのものが悪いわけではない。
けれど、欲求が強すぎたり、欲求をいつも他の誰かに埋めてもらおうとすると苦しくなる。
人は他人の欲求を埋めるために生きていないからだ。監督や他の誰かがあなたを認めてくれるかどうかはあなたにコントロールできることではない。
幸運なことに誰かに「認められた!」と思う瞬間があったとしても、それは『ラッキー=幸運』なのである。長続きしたり、またほしいと思って与えてもらえるものではない。
では、どうしたら良いのか…?
その答えは、『自分で自分を認める』こと。
どんな自分にも◯(マル)をしていくことだ。
『自分で自分を認める』とは、これまで監督をはじめとした他人に向けてきた「認めてほしい」気持ちを自分で満たすこと。
日々の努力を監督に認めてほしい。そんなあなたは、日々努力している自分を自分で褒める。
熱い想いで指導していることを選手や周りの人に認めてもらいたい。そんなあなたは、熱い気持ちで取り組んでいる自分を自分で労う。
自分の存在を仲間に認めてもらいたい。そんなあなたは、自分は「ここにいていい」と自分で認める。
上手くできても、できなくても、カッコ悪くても、いま懸命に競技に取り組んでいる、自分を認める。
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承認欲求は多かれ少なかれ誰にでもある。
けれど、それを他人に満たしてもらおうとすると苦しくなる。
『自分で自分を満たす』
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日高聡子