八百万神とは
人を政治またはお金、もしくはその両方のために参集する目的の宗教は宗教にあらず。
さらに宗教とは人間が作り出した機能であって、本末転倒な思想である。
人間にとって誰かにとって都合が良いというものが宗教である。少なくとも古来の宗教家たちとは、現在では趣が変わってしまいそうなっている。
その証拠は、修行とは名ばかりで神社も寺も金と名誉のことしか考えていない。
昔、欲しいものは何だ?という質問に“名誉です。”と答える愚か者がいたが、強ち世情にあった答えだったのかもしれない。人が人だけにフォーカスしているのが現代である。人間は、人工物と言えるほど不自然なものになってしまっている。
僅かに封印を解いて八百万神を再び降臨させなくてはならない。
このような言い方をすると、オカルトのように聞こえるかもしれないが、直訳せずに解釈として表現しただけであるので誤解のないように願いたい。
その真意は、学びと感謝である。
人間の欲望が作り出した全ての宗教とそれに関わる詐欺の終焉こそ、その真意に通じると考えている。
そもそも過去の哲学者や思想家などは、宗教を強固にすることで人々を支配し国を存続させることが出来ると、誰もが著述している。
支配者になり得た人間以外の多くが、実に何時の時代も、法律や常識や習慣や主導者などに洗脳され、そのまま気付きもせず支配され続けている。
政治が宗教でなくて何であろうか。宗教が政治ではなくてなんであろうか。
三権分立などという綺麗事が、効力を発揮し続けることなど出来るはずがないのである。何故なら、イコールであり名称を変えて言い表しているが所詮密接に関わっている物事であるからだ。
法律や常識や社会を保つために造られた国が宗教でなくて何であろうか。
何故ならそれらは、自然であるということとは、真逆なのだ。
人間が自然であったのは、おそよ何時までを指すのだろうか。誰もに分かることはないだろう。
そのような社会の中で人は生きている。
その時に、本当に信じるべきものは自身のみだ。
まやかしの宗教や過去の偶像に依存するのではなく、過去人の経験を学ぶことこそ神学と言える。
俺が無宗教を名乗る所以である。
現代の宗教という言葉の解釈が間違っていて正しく運用出来ないのであれば、一度その言葉を捨てるべきだ。