何かと理由を付けたがる
子供の頃、いろいろなことを空想したり考えていた。そんな時によく理由や目的を探りたくなった。例えば、生まれた意味は?とか、運命や使命はあるの?とか?、そして何かと理由を付けたがるのです。その理由も、出来るだけ壮大だったり自分は選ばれた者だとか、とにかく都合良く自分を主人公にしてしまう。
映画やアニメは、それらの空想をビジュアル化にしたものだと思うのだけど、時々本当にあるんじゃないかと思わせるものがある。
しかし真理はどうだろうかと考えたとき、そんなことを考えて時間を費やしているような人間が何かを成し遂げられることは少ないように思う。ただ、強烈に思い込んで自身に暗示をかけることが出来る可能性はあるので、全く無意味だとも言い難い。確率の観点で考察しても1%以下の以下の以下くらいしか無いからやはり限りなく0だと言えるだろう。
それでも偉人たちも、そんな時間の無駄ともいうべき思考をした可能性はある。偉人の偉人たる所以は、親にあるというのが説得力のある考えではないだろうか。親がどのように思考し、どのような会話をしているのかということが根本にあると思う。それはどちらかといえば、遺伝子なのかもしれない。だからどのタイミングでもよいから悪い思考だと思われることは断ち切ろうという意志を持ち、徐々に徐々に代々に亘って遺伝子に刷り込んで行くしかないと思う。
だけど人間は、代々トラウマを受け継ぐのが習性のようなものでもあるから、非常に難しい課題だ。インターネットも無かった時代の優れた点は、近所との付き合いが濃かったことだろう。影響を与えるのが親だけではなかった。当然に良し悪しはあって、近所付き合いが希薄な現代の方が優れている部分もあるのだが。
そう簡単に答えは出ないのだけど、何かと理由を付けたがることをやめた方が良さそうだと最近は思っている。理由は、理由を付けようとする時は、感情的になったり、何かに感情移入してしまいがちだからだ。
感情は生きる上で必要だと思うけれど、だからこそ目を曇らせ判断を誤らせたりする。だから、冷静に俯瞰し、自分のことほど客観性が必要で、他人のことほど自分のことように親身になるのが本来の生き方のように思う。
現代の人間の中にどれだけそのような人が居るだろうか。俺自身も恋人や親友に対して本当にそう出来ているか甚だ疑わしい。人生は長いようでとても短いのだけど、その本質を見失って生きなければならない現代の経済社会の仕組みはとても残酷なものだと痛感している。
シンプルになれ。自分のことは冷静に考え、大切な人は自分の事のように配慮する。親しくも無い他人に良く思われる必要はない。恋人や家族や親友に甘えるのは許されると思っているだろうけど、本当は真逆だ。当然、誰に対しても無礼をしてはならない。その誰に対してもの最優先は大切な人たちなのである。
人前で格好付けて、大切な人に甘え傷付けているのが当たり前になっているように思う。何かと理由を付けたがり、格好を付けるのではなく、まず大切な人が何故大切なのか、その理由を肝に命じて恥じない後悔しない生き方を心がけることで、理由など付けなくても道が開けるのではないだろうか。