紙切れが織り成す経済というギャンブル
本当は境界線なんて何処にも無いのに、地面にも、言葉にも、人間にも、境界線を引きまくって、もう誰も誰かに干渉したり、誰かに何かを言えない時代だ。
見方が違えば、受取り方は如何様にも変化する。
優しい気遣いも仇になったり、親しみの笑顔が馬鹿にされたと傷付けていることになったりする。
人がどのように間違いを犯して来たのか、皆それなりに理解しているが、権利や、依存や、保険や、無責任のために後戻りが出来ない。
何を捨てて、何を残すのか、誰が決めるべきなのか、そもそも何故従うしかないのか。
ずっと奴隷だから気付かない。
せめて今感じる自由を守りたいと思っている程度。
だから数は多いのに壊せない。
希望があるのに、知っているのに、檻から出ることが出来ない。
この檻の中で勝てるならまだしも、明らかに踏み出せず負けているのにプライドは高い。
勝者は、檻の中でも居心地がよいから檻を壊そうとしない。
絶対数を考えて敗者がどこまで耐えられるか観察している。
勝者は、負けているものを手放そうとしない。
賢人のようなことを言いながら洗脳し遊ぶ暇もないほど人を働かせる。
では、檻の外は危険なのか。
そう脅威は山のようにある。
でも中で脅えているよりマシではないか。
人は、物語に夢中で真実から目を背けがちである。
だから賢人は孤独になってゆく。
誇大に良いことを演説する者に人は集まる。
人は、集団でなければ生きられないのだろうか。
多くのことを実現するために集団になるのは有効だ。
しかし四六時中、集団でいる必要があるだろうか。
都市での集団は、隣人を知らないほど関係性は薄い。
本当は、信頼と技術の集団で無ければ意味がない。
紙切れが織り成す経済というギャンブル。
勝者と敗者を生み出すのは当たり前である。
先述の通り、勝者はやめようとはしない。
ギャンブルである以上、親がいる。
そしてその相場は、親が強いに決まっている。
親になれると、その世界で絶大な権力者になれる。
だから大勢の人が敗者でなければ困る。
実にシンプルで見せられている事柄は全て、敗者のままにしておくための誘導。
檻の外にも、生きられる道があり開けられるドアは沢山ある。
檻の中で負け込んできたら、ただ檻の外へ出たらよい。
実は、そっちが本当の勝ちだから。
タヒんだら天国へ行くというのと同じこと。
備えあれば憂いなしだ。
檻の中で負けた時の準備(情報や物など)はしておいたほうがいい。
外へ出る時に悩まずに済む。
しかし、どのように考えどのように選択するかは自由だ。
時期も人それぞれで、持っている技術も様々だ。
ただ本当に烏滸がましい限りだけれど、許されるならば、未来への種は蒔いていたいと思っている。
俺は檻の外を知っている。
でも檻の中が嫌いじゃない。
街、物、娯楽、贅沢は、刺激的だから。
ここが窮屈になったら、いつでも檻の外へ向かう。
隣人を監視するような社会や、ルールが無茶振りとかなら、もうそこに居る必要はない。
勝てないギャンブルをする意味がない。
そんな風に考えている。