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自分が自分に認められる


承認欲求

 現代ではSNSの普及もあり承認欲求という言葉をよく耳にするようになった。しかし、別に今に始まった訳ではなく大昔から人間はずっと承認欲求と向き合ってきている。例えば、名誉や権力欲なども言い換えれば承認欲求で、大きい話だけではなく隣の家よりうちは大きいとかそういうちっぽけな話も承認欲求と言い換えることが出来ると思う。誰かに認められたいという承認欲求は、色々な面を持っているが人を見下したいということにも似ている。明確にそう思っている訳ではなくても、『どう?すごいでしょ?』というのは自慢も含めて結果的にマウントを取ることに結びついてゆく。結局、いじめだってその延長のようなものではないだろうか。

いじめ

 話が逸れるけれど、イジメには幾つかの種類がある。一つは先に書いたような、承認欲求など人より優れていると誇示したいような感情がベースにあるマウントタイプ。これは、腕力によるイジメも同様の種類であると言えよう。そしてもう一つは、言葉が難しいのだが純粋なイジメだ。純粋なイジメとは何かといえば、より動物性というべきだろうか、解釈しやすく言えば悪魔性というか。ただこの悪魔性という言い方は非常に語弊がある。
 少しだけ掘り下げると、善悪の解釈が出来ないという意味だ。だからこそ、悪魔性と言ったのに純粋だとも言ったのである。『昔あんなに悪かったのに、町の行事も疎かにしないほど、ずいぶんと好青年になった。』なんていう類のイジメっ子は、赤ん坊と同じで善悪がついておらず楽しくてそうしていただけで、本当に幼稚だったというタイプだ。だからこそ悪魔性と言うことも出来るのだが、悪質かと言えばそうでもない。
 イジメということの深掘りは、相当に文字数を要すのでこの記述では承認欲求に絡んだここまでにしておきたい。

誰に認められたいのか

 さて、どのような承認欲求でも必ず誰に認められたいのか。という部分があるのではないだろうか。
SNSの中では、承認欲求以外の面もあるが例えば、
・フォロワーを獲得すること
・フォロワーを獲得してお金を得ること
・その中でいいねが欲しい
・キラキラと輝いた発信をしたい
・自慢に繋がる
・友達を作りたい
・同じ考えの人と繋がりたい
・ニュースを取得し、様々な意見を知りたい
・有名人の発信を知りたい
・政治の動向を知りたい
・その他の集団のために活用したい
まだまだ理由はあれど、承認欲求以外の目的は一旦横に置いておくとして、承認欲求だけをまとめてしまえば理想の自分になりたいということだろう。

結局のところ

 主題にある通り、自分に自分が認められたいのではないだろうか。しかし現実は甘くなく、自分が思っているほど自分の理想に近付いていないから、イライラしてもっともっとと承認欲求が強くなるように思う。そしてそうこうしているうちに、そもそも何のためにSNSを始めて何にために承認欲求しているのか分からなくなるという五里霧中な状況に陥り、なかには犯罪スレスレとか犯罪で捕まるとかいうところまで発展しているように思う。

自分に認められたいなら

 内観することである。という結論に至る。何故なら、自分を見失うのも自分の未熟さ故であり、常に内観していればブレないはずなのに若いスマホが生まれた時からある世代よりも、団塊ジュニアや40代くらいの人の方がその魔性のロジックにやられているように思う。ある意味、美魔女やイケオジもそうだと思う。本当に生き様に納得して、自己承認を満たしている人間が拗らせているとは呼ばないだろう。拗らせは、結局のところ自分で自分を認められないからである。それを他者に欲求しているだけのように思う。

商売になぞらえて

 1いいねがあれば、相対的な総量から考えて75億人の何割かの代弁であるのに、もっといいねが欲しいというように、1の顧客こそ心理があることを忘れ、無闇に販路の拡大に乗り出すようなものだ。

 だから、いいねは数の問題ではなく自分を満たした上で、1人でも賛同者があるかを問うものであり、それは社会実験としてはもう十分なのである。

誰に認められたいのか、それは自分自身であると知れば終わりなのだ。

 そこに至るまでには、長い長い道程が待っている。しかし、一度は踏み入れる場所であり、早々に抜け出すことが時間の無駄を省くことになる。

皆様の今後の検討を祈る

 年が明けた2025最初の所感でした(笑)